2018年7月20日、滝口悠生さんとのカタリココ

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ゲストとは初対面のことが多いのですが、滝口悠生さんとはそれだけなく打ち合わせもまったくなしでした。参加者にお配りした冊子(下の写真)にサインを入れる作業を、滝口悠生さんが開演ぎりぎりまでしてくださったからです。時計が30分を指したと同時にトークに入りましたが、もっと後で触れようと思っていた事柄が、どうしたわけか始めてすぐに口をついて出てしまいました。それは「時間」のことです。滝口さんの小説には時間への関心が通奏低音のように流れていますが、今回再読してとりわけそのことが印象に残り、こんなにふうに時間にあれこれ考えを巡らすのは、彼が無為な時間をたくさん過ごしてきたからだろう、と思ったのです。

いきなり本題に突入しすぎな感もありましたが、滝口さんは少しもたじろぐことなく、「うん、20代のころはひまでよく歩いてましたねえ」と答えました。大学に通うのに、埼玉の自宅から電車で池袋にでると早稲田まであの道、この道と平気で3時間くらい歩いてしまう。関西にいくにも新幹線がいやで鈍行を使う。そうやって身体感覚に見合う移動を重ねたことは、創作のベースになっていると思われます。人はなにの為でも無い時間を過ごしているとき、世間的な時空間からちょっとズレたところから物事を見たり感じたりします。それはその人の核を形づくるし文体にも出るのです。IMG_0331_convert_20180726140630.jpg 
小説のなかにはときおり驚くような文章が登場します。たとえば『茄子の輝き』のなかの「文化」は、主人公の「私」が神保町の食堂で文化の日にギョーザを食べる話なのですが、そこで以下の文章を遭遇したときはびっくりしました。
「私は肩掛けカバンとは別に、本が入っているらしい深緑のビニール袋を持っていた」。
「本が入っている」ではなくて「入っているらしい」。たしかに、祝日の昼間にビールとギョーザを頼めば、「入っているらしい」と言いたくなる気分になりますが、それにしてもはじまって早々にこう書くのはかなり勇気がいるし、校閲からも指摘されます。でも滝口さん曰く、「オレのせいじゃない、この人がそう言ったんだから(笑)」。

小説を書き始めたころは、書き手と物語の語り手(主人公)との関係の取り方がよくわからなかったと言います。語り手を自分から切り離して他者にするのがむずかしいということです。『高架線』では登場人物が名乗りをあげて話を切りだしますが、そう思えばあのスタイルは完璧です。名乗らせることで彼らが自立した存在になり、書き手はその人の言い分を聞けばいいという立場になる。両者の距離が一定するのです。
滝口さんの小説は、自己の内的世界を示すのではなく、外部にある物語に耳をすませるのが特徴ですが、その語りが時間軸にそって淡々と進むのではなく、途中に線路の切り替えポイントのような箇所があって巧みに視点や時間が切り替ります。そのために論理よりも流れで意味が決まっていく日本語の特性が最大限に引き出されており、「日本文学」というより「日本語文学」という呼び名がふさわしいような言葉の跳躍力を感じます。

滝口さんは秋からはじまるアイオワ大学のレジデンスプログラムに参加するために、まもなくアメリカに発つそうです。彼の「日本語文学」が英語圏でどのように受け取られるのか、世界各地から集まったさまざまな言語の作家たちからどんな刺激を受けるのか、とても楽しみです。(2018.7.28)