福田尚代さんのカタリココ、ご報告です!

IMG_2239-1_convert_20180530163546.jpeg 絵を描くよりも本を読むほうがずっと好きだった子どもが、なぜ文章ではなく、美術の道に進んだのか。福田尚代さんの経歴をみたとき、いちばんの謎はそこでしたが、福田さん曰く、「まったく考えもしなかった問いです」。
  大学がつづいている高校でそのまま進学するのが嫌で、美術学校に行こうと思ったのが絵をはじめた動機でした。つまり進路が先で絵は後から付いてきたのですが、描きだすと夢中になり、しかもその何に惹かれたかに彼女らしい理由があって、目の前にあるものを何時間でも見つめていられることがうれしかったと言います。もし日常生活でやったら頭がオカシイと疑われかもしれないことを、絵が理由ならば堂々とできたわけで、見つづけるうちに日常とはちがうように見えてきて、いままで見ていたものはなんだったのかと疑問に思うほどに。東京藝大の受験がその年は珍しいことに自由課題で、偶然見かけた石を描いて見事に合格。

 とはいえ、そこからはイバラの道でした。絵に対する実感がほかの人たちとかけ離れていて、凝視すればするほど対象が粒子に分解して形が描けなくなるのです。唯一、実感をもって行えたのは点を打つことで、しばらく点描をつづけますが、そのうちにそれが文字に見えてきて、回文をつくるようになりました。
美術の範疇からはみでた秘すべき行為としてつづけたそれが極点に到達したのは、結婚した相手の留学先についていった北米のワシントン州でのことでした。周囲に自然しかなくて、しじゅう雨の降っていて、荒涼として人工物がほとんど見あたらないのオリンピアとシアトルに六年間暮らし、それまで以上に深い孤独にさらされますが、その異国の日々がいまにつづく「福田尚代」の揺籃期となったのです。
 まず言葉が通じないことが新鮮でした。そのことを貴重に思い語学学校にはあえて行かず、言葉を身につける以前の幼児のような日々を過ごしました。言葉をもたないということは、存在の根拠が人間社会のなかになくなるということで、自然が近づいてきて自分との境界が消えていきます。日本では回文のことは隠していましたが、「完全にだれでもない人」になったそこでは隠す必要もなく、絶体絶命の状態に追い込まれながら、回文づくりに没頭しました。
image1-1_convert_20180530163614.jpeg
 話を聞いて、自然を見つめていたときに福田さんの目に映ったのはひらがなの源ではないかと思いました。直線で構成された漢字は面的要素もあって立体的ですが、すべてが曲線でできているひらがなは、平板でラインの流れが際立ちます。きっと彼女の目は自然物を見ながらモノとモノの際に生まれるラインをたどり、さまざまな形態に潜む生命のリズムを呼吸していたのでしょう。
 ひらがなは中国の漢字を簡略化したものですけれど、そう言われてもにわかに信じられないほどもとの形を超えています。回文はまずひらがなで書かれ、この状態ではパラパラして意味はとれず、それを漢字に置き換えて読み下したときにはじめて意味が浮かびあがりますが、はじめのひらがなの状態には線の流れに生命のさざめきを感じとっていた古代人の感覚が写しとられているように思います。本に熱中していた子供のころ、彼女は言葉の意味やお話の筋をたどるだけでなく、文字の形象を吸いとり、からだに溜め込んでいたのでしょう。自然のなかで樹々の枝や根っこや葉の重なりを見つめるうちにそれらが「文字の繊維」と重なるという体験が、言葉が失われた異国の地でより強く起きたのかもしれません。
 カタリココの翌日、福田さんから「昨夜は朝まで想うことが尽きず、今日は『隆房卿艶詞絵巻』の本を眺めてすごしました」とメールが届きました。『隆房卿艶詞絵巻』の葦手絵は桜や藤や柳の曲線のなかに文字が隠されていて、文字が意味を伝えるだけでなく、生命の波動を伝えるものでもあったのがわかります。オリンピアの自然のなかで福田さんはひらがなを生み出した昔の日本人と同じ眼差しでモノを見ていたのかもしれないと思うと、不思議な感動がわきあがります。だれかに影響を受けるのでもまねるのでなく、彼女にとって切実な問いをつきつめたあげくにたどりついたこの場所こそを「新しい美術」と呼びたいと思いました。(2018.6.5)
福田尚代著『ひかり埃のきみー美術と回文』書評