モランディは写真を意識していたにちがいない。

モランディ展を見た。瓶や水差しや漏斗などが繰り返し描かれるが、彼がそれらのモノを描写しようとしていないのは明らかだ。質感がまったく描かれてない。だから、瀬戸物なのか、金属なのかわからないし、サイズについて同様で、日常で使っているカップや器からの連想で手でつかめるものを思い描くだけで、大きさを示す目安もどこにも描かれていない。背景は無地でなんの情報もないのだ。

つまり、地と図の関係がほかの絵画とまったく異なっている。

絵を描いたことがある人ならわかると思うが、モノを描くと背景無地のときはモノが浮き立つが(浮いて着地しないという別の問題が生じるが)、背景に色を塗ったとたんに筆の線や色によって図がひっこんでしまうことが起きる。それを回避するにはモノの描写を細かくすればいい。すると図と地のあいだに主従関係が生まれて、モノを認識しやすくなる。でもモランディはそうしない。図も地も等価に扱い、図と地がギリギリのところでせめぎあい、震えあっているさまを描きだす。つまり、モノは確固とした存在としてそこにあるわけではなく、目に見られることによって出現する、そう彼の絵は主張する。

よく考えたらこれは写真の言い分ではないか。目前に「現象している」ものを、消えないうちに捉えるのを得意とする装置なのだから。映画や写真の登場によって絵画が消えていくのをモランディは悲しんだというが、彼のモノをとらえる態度は写真が解明した認識世界に近かった。そのことを絵画でおこなおうとしたのが、彼の挑戦だった。

写真家のルイジ・ギッリはモランディのアトリエを撮影しており、絵に登場するモノたちを同じような構図で写真に撮っているが、それらは皮肉なことに、まったくモノにしか見えない。意図してのことだろうが、モランディの絵から受けるとる図と地の奇妙な関係性は消えてしまっている。これは、写真には動かない静物を現象しているものとして捉えるのがむずかしいことによる。レンズの描写力により物質感が強調されてしまうし、むしろそこに力が発揮されるのが写真なのだ(土門拳の仏像を思い出して欲しい!)。

モノを相手にすればこそ絵画で現象が表現できる、モランディはそう考えたはずだ。だからあのように繰り返し同じモノたちを配置し、視線の高さや空間の大きさや筆のタッチや塗りの厚さなどをかえながら描いた。映像の時代に絵画でなにをすべきかを深く考えていた人なのである。
ちなみに、彼は会う人は厳選していたが、カルチェ=ブレッソンとは仲が良かったそうだ。
東京ステーションギャラリーで4月10日まで(2016.3.21.)