2015年最後のカタリココ、高野文子さんとの濃密な2時間。

IMG_9525_convert_20151117170828.jpgIMG_9518_convert_20151117170900.jpeg告白しますと、高野文子さんの作品は『ドミトリーともきんす』ではじめて知りました。マンガを読む習慣がないもので、その世界にうとかったのです。「ともきんす」を読んで、こういうマンガがありうるのか!とびっくりし、過去の作品に遡ってわかったのは、彼女のほとんどの作品が「自伝である」ということです。『チボー家の人々』に没頭する少女が主人公の『黄色い本』がそうなのは言うまでもありませんが、それ以前の作品も自伝の要素が強く、これまでくぐりぬけてきた記憶や意識世界がベースになっています。
 ひとりの人間が、どのような過程を経て、いまある表現にいきつき、この先を進もうとしているのか。カタリココの関心はいつもそこにありますが、高野さんの作品はとりわけその興味をかきたてました。そんな次第で、新潟の国鉄官舎に育った独り遊びの好きな少女が、どのようにして従来のマンガを逸脱し、独特の世界を築いてきたのか、というのが今回のテーマでした。
 絵は好きだったけど、職業にしてはいけない、趣味に留めておかなくてはいけないという考えがあった、というのも(昔の男性としてはめずらしく!)お父さまが活け花をやっていて、花器などに結構お金がかかり、こういうものを生活の手段したら大変だ、という観念が家のなかに行き渡っていたそうです。ですから職業としては看護師を選んで親をホッとさせて、好きなマンガに没頭することに。
 高野さんの作品から伝わってくるのは「憑依体質」です。何かを観察し、凝視することで、そのものに侵入してなりきってしまう、そういう「癖」が、登場人物の動きや仕種やカット割りに色濃く現れています。
 そう伝えると高野さんは「実はそうなのです」とニヤリ。自分をバラバラにしてしまうことを、マンガのなかでは大いにやっていい、日常にもどったときにピタッとくっつきさえすればいい、とかなり早い時期に自覚したとのこと。あの独特のフレーミングやズームアップの手法は、物を意味としてつかまえ統合する以前の、周囲のものが等価に存在していた幼児の体験する感覚世界に近いです。きっと当時の記憶がからだのなかにたっぷりと蓄積されているのでしょう。
 でも、そうした能力は社会では不要だし、むしろ邪魔なものです。看護学校では実習ノートというのがありました。患者の報告を書くのですが、その作業がおもしろくて何ページにもわたって記述して出すと、「感じたことを書く必要はありません」と先生にダメだしされ、落胆して部屋にもどり(寮生活だったそうです)仲間に見せたら、「小説みたいでおもしろい!」とまったくちがう反応が出ました。人間の能力には使われるべき場所があり、それを間違うと無価値になります。コマに割ってヴィジュアルに展開していくマンガというメディアに出会ったことで、幸いにも、高野さんの分身能力は救われたのでした。
 『ドミトリーともきんす』の前の『黄色い本』とのあいだには、十年以上のブランクがあります。『黄色い本』までは、最初に言ったように自伝的要素が強く、それがこの作品においてはこれ以上行かないところまで突き詰められていますが、それに比べると『ともきんす』には描き方にも内容にも大きな飛躍があります。よくここに行きついたものだと、正直なところ驚愕しました。ひとりの作家の軌跡として眺めわたすと、これは大変なことだとわかります。
 『ともきんす』は、個人的体験や記憶から遠く隔たった科学がテーマになってますが、そこに至った契機として、世の中に「顔」が溢れていることへの違和感があったといいます。ひとりひとりの顔ではなく、チラシや広告に過剰なほど氾濫している作られた「顔」の気色悪さ。それを中和してくれるものとして、科学のもつ抽象性に惹かれました。
 『ともきんす』はとも子さんと娘のきん子さんが暮らしている寮に、のちに偉大な科学者になる四人の学生さんが寄宿しているという設定です。興味を引かれたのは、とも子さんときん子さんは均一な線(製図ペン)で、学生さんは強弱のある線(筆)でというふうに描き分けられていることでした。線の世界は非常に奥深くて、線といえども面であり、その面積(つまりは線の幅)によって絵の印象や奥行きがまったく変わってきます。とも子さんときん子さんは均一な線で描かれ二次元的ですが、筆で描かれた学生さんには奥行きと立体感があり、この対照がとても効果的だと思いました。母娘がしずかに暮らしている一階のリビングに、トントンと足音を響かせて学生さんが下りてきて、突拍子もない話題を投げかけ、その場がいきなり躍動感に溢れる、そんな雰囲気がよく表れ出ているのです。
 このことに触れると、高野さんが線の描写について、非常に興味深い話をしてくれました。猫の絵を製図ペンと筆で描き分けて逆さまにして眺めると、製図ペンのものは猫に見えるけど、筆のほうは猫だか何だかわからなくなる、というのです。
 筆を使うときは、墨に浸して一気に描いていくので、途中から墨の量が減って線が細くなったり、かすれたり、動きがゆっくりの箇所では墨の出が多くなって線が太くなるなど、重力の影響を受けます。それゆえに、正立の状態で描いた猫を逆さにすると重力の法則にあわなくなり、意味がばらけて猫に見えなくなるのです。一方、製図ペンは重力に左右されないので、ひっくりかえしても猫に見える。つまり重力から自由になって平面化することで「猫」という記号になるのです。なるほど!とうならされる話でした。筆の線が走っているだけの墨絵が非常に立体的に見えるのは、考えたら不思議なことではありませんか。ひとつの絵の中に太い線と細い線が混在していると、私たちの目は太い部分を「影」として認識し、頭のなかで立体像を立ち上げるのでしょう。このように線ひとつをとってみても、考えることはたくさんあるわけで、お互いに想念を自由に広げながら思いついたことを語りあうのはトークショーの醍醐味です。
IMG_9522_convert_20151117170936.jpg「高野文子」というたぐいまれな作家の芯のようなものに触れることのできた、貴重な二時間でした。すべてをお伝えできないのが残念ですが、最後に会場からひとつだけ受けた質問への高野さんの回答がすばらしかったので、ご紹介しましょう。
「バラバラにしたあと、どうやって自分をひとつに戻すのですか?」という質問。
高野さんの答えはこうでした。読者をバラバラの世界に引き込んでも、最後にもどってこられるようにするのは描き手の責任だから、自分がもどってこられると確信できるまでは描き出さない。そして描いていないときは、リア充の友人たちとたくさん交わるようにする。看護師をしていた頃の仲間といまだに付き合いがつづいていて、彼らとのおしゃべりがいいバランスになっている、そう帰り道で話してくださったことを付け加えておきます。
 次のテーマは「こどもの福祉」で、いま児童施設に通ってスケッチをしているとのこと。会場ではそのイラストも配られましたが、『ともきんす』があってはじめて到達できたと感じさせる魅力的な世界でした。ちくまプリマーブックスの一冊として来年刊行の予定だそうなので、お楽しみに!(2015.11.18)
*今回で2015年のカタリココは終了です。2016年は6月からスタート、来年はなんと10周年です。新たなラインナップにご期待ください!