2015年カタリココのトップバッターは、内藤礼さん!

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 2015年6月4日ボヘミアンズ・ギルドでおこなわれた本年最初のカタリココは、美術家の内藤礼さんにお越しいただきました。開演の7時には予約者全員が席に着き、めったに公の場にでられない内藤さんのことばを固唾を呑んで見守りました。
 私が内藤さんとお話しをしたいと思ったのは、昨年東京都庭園美術館での「信の感情」展で「地上はどんなところだったか」という映像作品を観たことです。内藤さん自らビデオカメラを握ったこと、撮影のために沖縄にいったこと、それになにより、そこに映っている人々がカメラなど存在しないように自然にふるまっているのに驚かされました。
 作品には「ちいさな人」が出てきます。目だけがついた木で彫られたひとがたです。この「人」を彫り出したのは東日本大震災後。人を作ろうという強い衝動が起きてたくさん作り、そのうちの一人を沖縄本島最北にある奥という集落に連れていきました。その人は「見たものを希望だと思って信じて疑わない人」です。人間ではそういうことはあり得ないですから、内藤さんが作りましたが、内藤さんを超えた何かであろうとする存在です。
 その「小さな人」を村の各所に置き、その人の目と化して奥集落を撮影しました。その「人」がなにかを見たと実感するまで見つめつづけるという集中した時間のなかで、撮影者が消え、視線そのものになったのでしょう。村人が意識せずに振る舞えたのはそういうことだろうと想像します。尋常でない集中力が発揮されると、体はそこにあるのにいなくなるというマジックが起きますから。
 自意識や自我は内藤さんの大きなテーマですが、私にとっても同じで、後半はその話に発展しました。自我から離れたいという思いと、自己を確立したいという思い。自分を知られたくないという思いと、作品を見てほしいという思い。相矛盾する感情ですが、何事かに集中する時間を持つことで忘我になり、そのあいだを通り抜けていくことが生きる実態なのかもしれません。
 最近内藤さんは、絵に色が付くだけで楽しくなったり、物の形を見るだけでうれしくなったりすることがあるそうです。何も起きていないのに、何の理由もないのに、おかしくなって、ふふっと笑ってしまう。「年をとると思ってもみなかったことが起きます」ということばに心から同感。
 最後に内藤さんが発せられたとても有効なことばを書き留めておこうと思います。「私は「私を生きる係」をやっているのです」。「役割」でも「役目」でもなく、「係」という慎ましいさがいいです。「私」にこだわりすぎたり、自意識に絡めとられそうになったとき、このことばを唱えてみると、縛っているロープがはらりと解けそうに思います!(2015.6.10)