昨夜の片岡義男さんとのトーク・メモ

「風景」ということばは、それを見ている人の感情が入っているような、いないような曖昧な言葉だからあまり使わない、と昨日のトークで片岡義男さん。英語だと「風景」はlandscape。たしかにずいぶんと差がある。
片岡さんの小説ではよく「景色」という言葉が使われる。『短篇を七つ、書いた順』の「エリザベス・リードを追憶する」にも、バーのママのリアリティーあるセリフとしてこの言葉が登場する。この「景色」は「場面」のことです、と片岡さん。scene 、あるいはviewの意味だ。
前回の堀江さんとのトークのときに、「雨は浮世ではないが、通り雨は浮世だ」という話が出ていた。「風景」を仮に外界のあり様と定義するなら、浮世と一線を引いた状態をそのまま表現する言葉は日本語にはないということ、あるいは「風景」という日本語は「見る」という行為があってはじめて「眼に見えてくる自然、あるいは現実のあり様」のことを指している、ということだ。

もうひとつ、同じ本に出て来る「なぜ抱いてくれなかったの」という言葉について。
短篇のタイトルでもあるのだが、むかしの女友達に三十四年ぶりにあった男が、彼女にそう言われるのである。「抱く」「抱かれる」は男の側からの言葉だ。こういう言葉は、これまでの片岡さんの小説にはあまり見られなかったように思う。飲む場所は以前はもっぱら女性のいるバーやクラブだったが、最近は居酒屋によく行く、という片岡さんの近況の変化と、こういう言葉がさらっと小説に出て来ることは、関係あるのか、ないのか。
 もっとも、このセリフを吐いているのは五十を過ぎた女性である。再会した男にこう言うのだから、ジョークっぽい感じがあるし、女の余裕も感じさせる。ひと捻りあるのだ。

片岡さんの小説で女性がベッドシーンで言うセリフで好きなのはこれだ。
バーで閉店まで飲んで、成り行きでバーの女性の家に泊まる。もちろんその夜にして、翌朝のベッドで再び男がその気を見せると、女が言うのだ。「またするの」。
白みはじめた窓が目に浮かび、まったりしたふとんの温かさがよみがえる。風景と情景と景色と光景が四つ巴になって立ちのぼってくるような、素晴らしいセリフ!(2014.6.29)