松家仁之さんとのカタリココ!

松家3
















私は小説を読むのにヴィジュアル化して読むんですが、すべての人がそうなわけではない、と知ったときはびっくりしました。それ以来、大きな関心事となり、松家さんにはまずそれをお訊きしたところ、ぼくもそうです、とおっしゃられ、やっぱり!と思いました。『火山のふもと』のなかの空間描写を読むと、そうとしか思えなかったのです。
建築家になりたかったけど、理数系がだめで断念、というところも共通しており、私も建築学科が理学部に属していると知ったときは驚き落胆したものでした。そんな次第で、期せずして建築に挫折した「空間派」のトークとなったのです。

松家さんは方向音痴なのに地図を描くのが好きで、編集者時代にはお遣いの方に地図を描くのに浮き浮きしたと言います。このお話は、空間を言葉にすることと、空間を図面にすることの差を考えるのに大きなヒントとなり、あとの話がここからスムーズに展開しました。

今回のために、私は恥かしながら「夏の家」を図面にしてみました(下の写真がそれです)。ところが、図面上の辻褄をあわせようとすると不明な点がでてくるし、何よりもその作業をするうちに頭のなかにあった「夏の家」のイメージがガラガラと崩れていくのです。こういうイメージだったのに、図面にすると合わない、あれ? という感じ。松家さん図面_convert_20130914100420
これは、「方向音痴なのに相手にわかりやすい地図を描くのは好き」というさきほどの話と似ているなと思いました。本当の距離はあっちの道のほうが長いのに、歩いているときの感覚でついこの道を長く描いてしまう、ということはよくありますし、かえって計測的に合ってないほうが通じやすかったりします。言葉とは、このように作者の意識を通過して表出するものであり、そういう言葉ほど相手にも強く深く伝わるのです。

巷では 「先生」や「内田さん」について、あの建築家がモデルではないか、などと憶測が飛び交っているようですが、ここにも興味深い問題が潜んでいます。モデルがそのまま小説上の人物ではないことは、言うまでもありませんが、実在の人物からインスピレーションを得た場合、いかにフィクション化していくかは結構、難題です。実像に意識が縛られてしまうのです。ですから、「先生」には自分のこれまでの人生で先生と仰いできた人のことを、「内田」さんには先輩として接してきた人のことを投入した、という言葉にはなるほどとうなずかされました。
松家さん1_convert_20130914100622つまり、フィクションとはいっても、作家の肉体を通過してきたことしか出ないということなのです。これにはもちろん、実際に知っている人だけではなく、映画や小説を通じて出会った人も含まれます。そのようなさまざまな影響にさらされたひとりの実存の意識と無意識をくぐりぬけて出てきた言葉。小説とは、そうした言葉がつながってできた世界の姿である、改めてそう確認した夜でした。(2013.9.14)