波多野昨夜は波多野睦美さんのご招待で、ベンジャミン・ブリテン生誕100年を記念「波多野睦美&高橋悠治 ブリティッシュ・ソングス・コンサート」にうかがった。前もって予定しなければならない煩わしさから、ふだんはどうしてもコンサートよりCDに走ってしまうが、コンサートではからだ全体が引き込まれるという、CD にはない現象が起きるようだ。

帰宅して、ふたりの CD『ゆめのよる』を聴いて寝たのだが、今朝、布団のなかでしきりに考えていたのは、先日、書評空間に書いた『螺旋海岸notebook』のなかの「写真の空間」のこと。昨夜の体験と通底するものがあったようなのだ。

『ゆめのよる』の最後に「おやすみなさい」という曲が入っている。石垣りんの詩「おやすみなさい」に高橋悠治さんが作曲し、波多野さんが歌ったものだが、これが三位一体の素晴らしさで、コンサートでもみほぐされた意識が、その歌の効果とあいまって、「写真の空間」への考えを、眠りのなかで発芽させたらしい。

「おやすみなさい」のなかの一節。

  いままで姿をあらわしていたものが
  すっぽり海にかくれてしまうこともあるように。
  人は布団に入り
  眠ります。

そのあとには、「財産も地位も衣装も持ち込めない深い闇のなかで」という言葉がつづくが、それが志賀が述べていた「なにもかもが真っ平らになった」あの夜の感覚と通じ合うように思えたのだった。そう言えば、思考を進めるキーワードのひとつとして彼女は「眠り」を挙げていたのではなかったか。

詩と写真はとても近い関係にある。「意味」をそのまま伝えるのではなく、さまざまな要素が手を結びあって生まれる、心の状態や、意識の空間を、手探りする。受け取る人や、その人の身体状況に変化を受けやすい、フラジャイルなものを扱うところが似ている。

詩ではすべてがその人の体から出てくるが、写真ではカメラという装置と被写体=現実が不可欠なことが、唯一ちがう点である。機械が介在しているゆえに、意図しないものが写りやすく、その意味では、人からより遠く、とりとめのないない空間に連れだすのかもしれない。

ひとつの考えが、別の体験をくぐって、別の思考を連れてくる。日々の時間でもっとも興奮するのは、こういうとき。昨夜のコンサートは、まぎれもなくそうした「体験」のひとつだった。(2013.4.25)