テートモダンの「ウィリアム・クライン+森山大道」展について

テートモダンで開催中の「ウィリアム・クライン+森山大道」展について日経新聞に書きました。掲載記事は以下に。(2013.1.6)
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東西写真家の対話に焦点「ウィリアム・クライン+森山大道」展

東洋と西洋の文化の違いは、明治以来さまざまな芸術分野に問いを投げかけてきた。とりわけ写真は装置そのものが「西」からやってきたから、写真家はそれをどう肉体化するかに苦心してきたはずである。
現在、ロンドンのテートモダンで開催中の森山大道とウィリアム・クラインの二人展は、その意味でとても興味深い企画だ。
森山大道への関心と評価はここ数年急速に高まっているが、今回の二人展はクラインとカップリングしている点が大変ユニーク。おそらく東西の写真家の二人展としては欧米初だろう。
森山の写真を特徴づけるアレ、ブレ、ハイコントラストなどはクラインの『ニューヨーク』が原点というのが定説だが、写真展を見ているうちに造形的な面白さだけが理由ではなかったはずだと感じた。森山は初期の頃からカメラを感覚器官のひとつのようにしてスナップすることに肉体的な興奮を覚えてきたが、その感覚と表現様式とがぴたりと重なっていることに圧倒されたのではないか。
クラインには写真家の自意識はなく、都市四部作を刊行後は絵画や映画に関心を移し、後半の展示には写真が少ない。ところがそれにつづく森山大道の空間は彼の眼が切り撮った世界の断片に埋め尽くされている。
それらを見て改めて思ったのだった。クラインの写真が示唆したアレ・ブレなどの表現形式が、彼のなかで世界を断片として見る視線に発展したことを。断片の収集を通じて現実世界と虚構世界を往復することに、彼は写真を続ける意味を見いだしたということを。
作品性よりも行為性を重視したこうした写真との対話は、日常の出来事を俳句や短歌に詠んだり、日記文学を生み出した日本の伝統と一脈通じるものがありそうだ。肉体が感知したものを表現形式に重ねあわせて、終わりのない自問自答をつづけていく。
かつて森山がクラインに触発されたように、この写真展に鼓舞され、自分の写真観に確信を持つ写真家が「西」にも現れるかもしれない。やはりもっとも面白いのは地下の水脈がつながり、地上に噴出することなのだから。                                    (2012年12月28日 日経新聞夕刊)