映画「ハーブ&ドロシー」を観て考えた。アートの本質とは?

今年の初映画は見逃していた「ハーブ&ドロシー」。写美1階で上映しているのを知り、見に行く。アート・コレクションに夢中になった夫婦、というシンプルな内容を想像していたがまったくちがった。現代アートの状況について切り込んでいくような奥深さがある。さる有名詩人Tがチラシに、言葉や知識にとらわれずに作品の美とその背後の人間を発見した、と書いていたが、そういうナイーブなレベルの話ではないのだ。

ハーブは大学で美術を学び、自身も絵を描いていた時期がある。美術史の勉強もしている。外見は無邪気そうに見えるが、ただ単に「これが好き」というだけでばらばらとコレクションしているわけではない。ただアートへの向かい方が美術業界の約束事や批評の文脈にのっとってないというだけ。むしろ本質的であるゆえにそこから逸脱していく。

無邪気なコレクターではないのは、彼らのコレクションがミニマルアートやコンセプチュアルアートなど、もっともわかりにくいとされているジャンルからからはじまっていることにも現れ出ている。アーチストのアトリエを訪ねるとふたりは過去の作品もスケッチも見られるものはすべて見たいと希望する。作品を買い上げれば定期的に作家を訪問し、創作の方向がどう変化していくかを見届ける。とてもに粘り強い。

究極の目的は作品そのものではない、というハーブのせりふがあった。アーチストの創作行為に何よりも深い関心を注いでいる。この作品のときはなにを考えていたのか、どういうインスピレーションによって次の段階にいったのか、そうした営みそのものがアート表現であり、その痕跡が明瞭に現れ出ているものにハーブは直感的に飛びつく。ハーブ自身が真剣に絵に取り組んでいた時期のあったことと無関係ではないだろう。

完成された作品よりも思考の軌跡に惹かれる傾向は、クリストの初期のドローイングを求めていることにもはっきりと現れ出ている。でき上がった「カーテン」よりも、そうした発想の中心にあるもの、試行錯誤の果てに実現させた思考の核となるものを初期のスケッチに見い出そうとする。きっと作品はあとに残った「証拠品」くらいな感じなのだろう。

彼らがアーチストと深い交流を持ったことを映画のなかでだれかが、「彼らはアート・コレクターではなくて、フレンズ・コレクターなのです」と語っていたが、このセリフは矮小化だ。創作の過程こそがアートの本質なのだから、その現場に立ち会い、作家に問いかけるのは当然であり、結果としてアーチストと親しくなる。友だちになることを求めて出かけていくわけではない。

美術館の展示室でコンセプチュアルアートやミニマルアートを見ると、「時代の残骸」を見ているような気分になることがある。民族博物館に使われなくなった民具が展示されているのと似て、かつては大活躍したはずなのに、いまはどのような意味があるかもわからない。

彼らが初期からコレクションしているものにドナルド・ジャッドの作品があるが、一見したところ「ペイントされた鉄の箱」である。もしこれが蒔絵の箱であったら、だれもの目にも技術の高さと美しさがわかるだろう。だがジャッドの箱を見て、そこにアーチストの関心や思考や技術を読み取るのはむずかしい。近代以降のアート作品には目で理解できるプロセスが欠如してしまったのだ。

そうした距離感は、作品を見つづけたり、作家と対話することでしか埋まらない。あたかも石臼を使っていた人の言葉によってそれが生き生きとしたものになるように。そのときの感覚を想像してみることで他者の体験が自分のいまにつながってくるように。作品や作家との対話にふたりが人生の大方の時間を投じたのはそのためだった。

ふつうの人はもちろんのこと、評論家ですらなかなかそういうことはしない。ひとつは作品と作家を分けて語るのが評論の潮流になったからだが、それ以上に資料だけで考察するほうが楽だからというのが大きいだろう。アーチストと付き合うのは手間なのだ。何を言い出すかわからないし、言っていることのウラもとれない。そのまま鵜呑みにすると面倒なことになる。

このようにして、美術館のアートコレクションは作り手から離れて保管されるだけの冷ややかなものとなっていった。人の足が現代美術館から遠ざかるとしたら、その冷たさに対する拒否感だ。人間が作ったものなに、そのように感じられない。どこに意味があるのかわからない。価値を教えてくれるのはその美術品の価格だけなのだ。現代社会が直面しているのと同じような困難が、美術行政や批評界にも立ちはだかっている。

思えば、わたしが『眼の狩人』と『彼らが写真を手にした切実さを』で写真家にしたのも、似たような行き詰まりを写真界に感じとったからだった。写真家の「生きさま」をドキュメントをするためではない。人生=写真だと言いたいわけでもない。ただ生きることのなかからしかそれらは生まれなかったということだ。この「生きること」には生きている時間におこなうすべてのことが含まれる。思考することも、読書もすることも、ものを考えることも、撮影することも、写真集を編むことも「生きる」時間のなかでおこなわれるという意味において、等価なのだ。

ハーブ&ドロシーはアート表現をそのようなものとしてとらえている。作品を部屋にかけ眺めて作家と対話することは彼らの「生きる時間」に含まれている。万人にではないけれど、ある人間にとって生きるのに欠くことのできない切実なもの、アートの生命はそこにあるのだ。(2013.1.5)