写真展を終えて、長いつぶやき……。

写真展がぶじ終了。ドアのむこうからどんな方が現れるかわからないという状況下で人に会うということは、ふだんの生活ではない。だいたいトークショーと仕事の打ち合わせ以外は(だれもそう思ってはいないようだけれど)人と会うことなく、比較的ひっそりと生きているほうなのだ。

それが写真展の最中は一転した。とくに最後の三日間はたくさんの方が来てくださり、写っているものへの質問、またその感想、写真そのものへの疑問などがギャラリー空間に渦巻いた。別の方に話していた言葉を、近くの方が聞いて「先ほどちょっと耳にしたのですが……」と言いながら思ったことを述べたり、知らないお客さん同士が写真についての感想を語りだしたりと、言葉が反響しあって写真をめぐる小宇宙が出来上がっていくような感覚をもった。

これこそが写真の醍醐味だ。作品や作者に個人的に向き合うことを求める絵画とちがって、写真は周囲の者との対話をうながす。写真の不安定感=生命感が生み出すエネルギーがそうさせるのだろう。お客さんのなかに絵を描いている方がなん人がいたが、その人たちからは、絵画の場合、線でも、色使いでも、マチエールでも、構図でも、画家が生み出したものだけれど、写真の場合はそれが曖昧でよくわからない、よい写真があったとしても、それが写真家の生んだものだという実感が持てない、という疑問がよせられた。

たしかに写真では、被写体がよかったのか、カメラがよかったのか、そこに居合わせたことがよかったのかが、判然としない。見る側にとっては撮り手の実力をはかる基準がなく、写真家の側からすれば、これは自分の生んだ作品ですと胸を張って言える磁場がないのだ。

24日の福岡伸一さんとのトークでは、ゆるぎないとした自己というのは生物的には存在しないという話がでたが、おなじように確固とした自我が保証されないのが写真なのである。その不安定感こそが写真のダイナミズムなのだ。立ち上がったばかりの赤ん坊が見せるあのふらふらゆらゆらした不安定な生命のありようを思いだしてみよう。あの状態をすてきだと感じる人だけが写真をつづけられる。

不安な世の中という言葉をやたらに連発するマスコミを信用してはいけない。不安こそが創作の火種なのだ。不安感を失ったら人間は人間でなくなってしまうのだから。(2012.10.28)