日本の作家は「揺れる」。そこにユニークさの秘訣がある!

阿部公彦が「書評空間」で沼野充義・編著の『世界は文学でできている』を取りあげている。欧米の作家はプロの小説家になると小説書きに専念するが、日本の作家は雑文書きをする、自分が書いている近代小説というものが自分の家だと心底から思えないようなところがいまだにあって、近代の西洋的な小説ではないものに回帰するということも起こってくる、という沼野の発言に対し、阿部は言う。この落ち着きのなさこそ、おもしろい。だから日本独特の散文性が出てくるのでは。小説以前に、”語り”や”しゃべり”があるのだ、と。
まったく同感。「砦」を築いて相手を迎え撃つのが欧米のやり方だとすれば(陣取り合戦方式)、日本のそれはもっと融通無碍で揺れている。揺れのなかからイモヅル式に何かが出てくるのを待つような「他力本願」的なところがある。
文学だけでなく、ほかの領域においてもそうだ。「芸術」と「芸能」のあいだの揺らぎ、といってもいいかも知れない。両者のあいだに明確な区分けがない。芸術よりも芸能の歴史のほうがずっと長いからだろう。たとえば欧米ではアート写真でデビューすると、格が下がると言って広告などを撮るのは止めるが、日本はどうだ。なんでもござれの篠山紀信やアラーキーなどの写真家がいる。彼らほど振幅の大きな写真家は海外には見当たらない。
彼らよりもっとあとの世代にしても同様だ。とたえば、これまで明快なコンセプトで撮ってきたのに、震災後に故郷の陸前高田を撮らずにいられなくなったという畠山直哉。彼はこれまでライフヒストリーを明かし、それに沿って撮ることはしてこなかったが、今回はそのやり方を横において「揺れ」のなかに飛び込んだのだった。
「揺れる」土地に住んでいるわたしたちは、「揺れ」が身体の一部になっているのだろうか!? 固定すると生命感が失われることを無意識のうちに感じ取っているかのだろうか!?「揺れる」とは自分を絶対化しないことと同義なのだ。
最近、片岡義男の仕事を過去のものから読み直しているが、彼も「揺れ」の人だ。彼ほどの振れ幅を持っている作家はほかにいないだろう。エンタメと純文学の区分けを超えているし、文筆だけでなく、写真も撮る。彼の作品が批評の俎上にのりにくいのも、その変幻自在な活動ぶりに批評家がどう向き合っていいかわからないからだろう。
「恋愛小説」と銘打たれた片岡の小説を読んでも、そこに男女の愛憎劇は出てこない。あるのは「出会い」だ。出会ったことで世界が変わっていくその光景を実に鮮やかに描き出す。実人生で感覚されたさまざまな出会いのディテールを、虚構世界のなかで解体し、組み直すのが彼の創作行為なのである。出会うものは人間だけではない。光のもとで可視化される物との出会いも含まれる。相手からくる波動を受け止め、つぎなるステップを踏み出す。彼の小説からあふれでる生命感は遭遇することの謎から来ているのだ。(2012.3.4)