未読の本にドアが開かれるとき

石田千著『きなりの雲』を阿部公彦氏が書評空間で書いているのを読んで、そうだったのか!と思った。彼女の作品の「トレードマークは主語を省略すること」「何より「私は語る」「私は思う」といった私の主語性に酔わない。素面でいようとする。」とある。
小説というのは、作者のもつリズムと合わないとなかなか読みずらい面がある。そうした理由で多くの小説をちょっと読んだだけで隅に追いやっている現実がある。この小説も未読だったが、「主語の省略」「私を語らない」というコメントが急接近させた。というのも、主語を省くことは私にとっても大きな関心事だからだ。『随時見学可』ではひとことも「私」を使わず、男が主人公の場合は読者が混乱しないよう早い段階で性別がわかるように工夫した(たいがいの読者は主人公と作者を重ねて読むので女だと思ってしまう)。
主人公を「私」とすれば作者との距離がとれなくなるし、名前がついているとそれぞれの人格が際立ちすぎてしまう(もし人格が描かれてないなら、描かれてないこと自体が気になったりする)。それをどうにかしたいと思った。主語を省いて、人間存在が確固としたものではなく、流れたり、入れ替わったりするものであるのを浮き彫りにすれば、読者が自分自身をそこに溶け込ませ、都市空間をテーマにした小説にふさわしいものになるのではないかと考えたのだった。石田千氏がどのような考えで主語を省くのかわからないが、『群像』で阿部さんが著者インタビューをしているそうなので、そこで明らかになっているのだろう。
出会えていない本はたくさんある。これだけ出版点数が多いと、ほとんどがそうなってしまう可能性がある。だが、あるとき、つるんとした建物に突然ドアが見つかることがある。今朝はこの書評がそのドアだった。(2012.2.5)