昨夜の畠山直哉さんとの連続トーク、第二弾!

R0015846_convert_20111005212535.jpg昨夜、ボヘミアンズ・ギルドでのカタリココで、畠山直哉さんと日曜につづいて、2回目のトークをしました。階段からこぼれんばかりの満場のお客さんを前にノンストップで2時間15分。なかなかの体験でした。
都写美のトークは私からの質問に畠山さんが答えるという質疑応答形式でしたが、昨夜はこちらの問題提起に彼が答え議論し合う場面もあり、1回目とはちがう雰囲気で進行。たとえば、『彼らが写真を手にした切実さを』のなかで私が書いた<日本写真>とは何か?という設問に対し彼は、そういう括りではなく個々の活動のなかにあるものを見て欲しい、という当然至極の意見で切り返します。でも、概念を持ち込むことで対象化が可能になるのでは?と踏ん張る私。「日本人論」でも「世代論」でも、「……論」と付くものにはつねに眉につばすべきものではありますが、人々に何かを問い掛けるときには論議の的となるべきものが必要です。もちろん名付けて囲い込むような政治性には注意しなければなりませんが。昨夜の議論はこういうことのためにあの本を書いたのだと思える開かれた内容で、うれしく思いました。
都写美の写真展には、東日本大震災以前と以後の陸前高田の風景写真を展示したコーナーがあります。畠山さんが生れたときから十何年、家を出れば必ず目の前にあったという河の写真もあり、こういう風景を見て育ってきたのだなと見入ったのですが、今回の展示において、発表の意図なく撮ってきたプライベートな写真も公開したことについて彼は日曜日のトークで、「このように自分を差し出すしかなかった」と語りました。そして昨夜はさらに、「このような大きな災害を体験したあとには、単に問いを投げかけるだけでは済まなくなった、これまでのどんな表現も自分を納得させられなくなってしまった」と強い調子で述べました。あらゆる歴史を切断する出来事だったのです。
上の写真はこの夏パリに行ったときに古書店で見つけたものです。「1940年、空爆のあとのロンドンの図書館」とあり、撮影者不詳。だれがどのような状況で撮ったものかわかりませんが、いろいろと湧いてくる思いを簡単にことばにするのがもったいないような気にさせる写真です。
畠山さんの写真には「破壊」のシーンが多く登場します。子供のときからそういう光景に惹きつけられてきたと言い、今回の展示では陸前高田のコーナーのあとに「ブラスト」シリーズがあり、発破によって岩が炸裂する光景が巨大スクリーンにスチール写真で連続映写されています。この構成力が彼の凄さだとつくづく感じ入ったのですが、考えているうちに、「自分を差し出す」ことの意味は、被災地の写真ではなく、むしろこちらのコーナーに象徴されているような気がしてきました。爆破された図書館の写真が脳裏に浮かんできたのはそのあとです。なぜだかわかりませんがそうなったので、ここにその写真を載せることにしました。『アサヒカメラ』9月号に寄せた文章で畠山は「誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」と述べていますが、この写真にもそれに通じるものがあるように思えます。(2011.10.5)