堀江敏幸さんの小説の登場人物になったかのような……。

R0012085_convert_20101108114820.jpg堀江敏幸さんが大竹昭子のことを聞きだす番外編<カタラレココ>が11月6日におこなわれました。いやあ、驚きました。ニューヨーク以前にどうしていたか、という話題からさりげなく入っていったのですが、ただ事実を聞きだすだけでなく、要所ごとに入る堀江さんのコメントが効いていて、また時間軸に沿っていくようでありながら、ふっと最近の著作に話を振って内容を膨らませてさまざまなモチーフをつなげていきます。「私」という登場人物を使って堀江さんが小説を書いている現場に立ちあっているような感覚。彼の創作の極意を生身を介して体験したかのようでした!
朗読コーナーでは堀江さんは『ゼラニウム』を、私は『図鑑少年』を、どちらも出来たての中公文庫ですが、互いに読んでほしい箇所をリクエストしあって朗読しました。私が希望したのは従来の堀江さんの作品とはややちがう雰囲気の「梟の館」の最後の部分を、堀江さんからは東京のお台場の埋め立て地を舞台にした「人工島」の最後をリクエストされて読んだのですが、私の朗読のあとに堀江さんから、90年代には埋立て地が舞台になった小説がいくつか出たけど、大竹さんのものはそれとはちょっと雰囲気がちがう、ふだんあまりこういう言葉は使わないけど、希望が感じられる、というコメントがありました。それを聞いて私はとっさに「もし希望があるとすれば、それは写真から教えられたことだと思う」と答えていました。
今朝、朝風呂に入りながらそのやりとりをつらつらと考えていました。
人間には、頭で考えて物や概念を産み出し、産み出したものをまた批評・批判するという理念的な面があります。でもその一方で、家を出たとたんにおもしろい出来事に遭遇して興奮してしまったり、あるいはランチにおいしい店をみつけてにんまりするようなきわめて感覚的な部分とがあります。前者は歴史意識につながり、もう一方は人間の生き物としての生命感に連結するように思いますが、その「生き物」の部分を強化してくれるのが私にとっての写真なのです。だから写真との関わりは止められない。
R0012091_convert_20101108130418.jpg出来ることなら文章作品の中でもそうした人間の両面を描き込みたいと思っているわけですが、初の長編小説『ソキョートーキョー』はもしかしてその試みだったのではないかとふと思いつきました。ぼんやりとは感じていたことですけど、それが写真行為の意味と絡んできたのは、堀江さんがいろいろな角度から私にとって写真とは何なのかを聞きだしてくれたからなのです。他者の声によってうちなる水脈が掘りだされ、流れがよくなる。「問われる立場」に立ったことで改めて<カタリココ>の課題が深く認識できた気がしました。
ところで『ソキョートーキョ』は現時点での私の回答ですが、書き終えたいま感じているのは、ネズミを擬人化したことで、さきほどから言っている人間の両側面が描きやすくなっているということです。その書きやすさを乗り越えて、人間たちの物語として書けるかどうかがつぎの課題だろうと思いました。(2010.11.8)