ツイッターはスナップ写真に似ている。

 ツイッターをはじめて半月ほどたったが、はっきりしたのは自分が共同体が苦手だということ。前からわかっていたけど、改めてそう思った。ツイッターは緩やかなコミュニティーが形成されるところにおもしろみがあるのだろうが、それがどうもキモチ悪い。学校が嫌いだったのも、会社勤めが出来ないのも、たまり場をもてないのも、読者にファン層が形成されないのも、みんなそこに関わっているような気がする。人とのまじわりが嫌いなわけではないが、仲間意識が肌にあわない。
 表現する人はもともと孤独を求めて(あるいはそれが好きで)この道を選ぶのではないかと思う。少なくとも私はそう。ある著名な詩人のツイッターに、「6万人(だったか?)の方がこれを見てくださっていると思うと感激です」と書いていたが、なんと能天気なことをと呆れた。6万人はただの数字にすぎないのに!
 ライブの場に集まってくれた観客を前にして「こんなに集まってくれてうれしいです!」というのはわかる。体を運んで来てくれ、実際に向かい合っているのだから、そういう感情が素直に湧いてくる。でも電脳空間に表示される数値に感激し、しかもそれを世間にむかって口外するのはナイーブすぎる。
 そうは言っても私もフォローの数字が上がっていれがいやな気はしないのだ。それどころか、朝っぱらから思わす口笛が出てしまったりするのである。でもふと我に返り、そんなことでいい気になっていていいのか?と自らに突っ込みを入れる。表現とは応答のあることを求めずに何かを問いかける行為なのではないか。世間にではなく、世界にむかって。反応欲求症候群になってはいけない。
 ならツイッターをつづけることに私自身はどんな面白みがあるかというと、言葉で写真をスナップしているような感じがする。それがおもしろい。あくまでも自分にとってであって、他人がどう思うかはわからないけど、過去の自分の文面をツラツラと読んでいると、スナップ写真を見ているようにそのときどきのことが鮮明によみがえってきて感慨深かった。(2010.8.20)