撮影者を自問自答の人にしてしまう写真のフシギ。

 忘れないうちに前回触れた畠山直哉展のつづきを書いておこう。展示を見終わって帰ろうとすると、畠山の書いた”「線をなぞる/ 山手通り」にかんするメモ”という文章が、カウンターに置かれているのが目に入った。いつもはこういうのはあまり読まないのだが、珍しく読んでみたところ、いろいろな考えを刺激されておもしろかった。
 人の視界は連続していて、驚くほど滑らかに変化している。撮影行為はその「視覚の連続性に停止をかけてみるという、ひとつの反省の試みの仕草だ」と畠山はいう。「時間」や「空間」は日常の視覚のまっただ中では認識されない。停止をかけるという視覚への「反省」行為によってはじめて出現すのである。むずかしく聞こえるかもしれないが、写真を集中して撮った体験があれば、この感じはわかるのではないか。
 ニューヨークに暮らしていたころ、一眼レフを買って撮影に夢中になった時期があった。そのときにこの感覚を強烈に味わった。当時のわたしは「長期の旅人」で、異国の街でなにもせずにぶらぶら過ごしていた。だから余計に「撮る以前」と「撮って以降」のちがいが明確に見えたのかもしれない。社会的な役割を持たずに異国にいるというのは、学齢前の「幼児」に逆戻りしているようなもので、世界の見え方がちがう。視覚を通して時空間とひとつになるような陶酔感があったのだ。
 ところが、どうしたわけか、あるときいきなり写真を撮りたいと思い、カメラを買ったのである。それからはもうノンストップで撮ることにのめり込んでいったのだが、そのときに視覚の流れから切断されて世界から疎外されたような感覚を持った。もう「以前」の状態にもどれないこと、写真を撮るとはあの流れる世界と決別することだと痛切に実感したのだった。
 その一方で撮影行為によってこれまで味わったことのない興奮を与えられもした。言葉を超えて自分の存在をまるごと受容されたような至福感だった。つまり、あのときわたしはひとつの至福から別の至福への移動を体験したのである。短期間だったが、写真の本質的なものに触れた気がした。

 写真は現実そのものではない、だが現実とつながっている。この二律背反が同時に起こるのが写真の経験であるとしっかりと認める時、「写真を見る僕たちの肉体内部に何が起きるか」と畠山は問う。まったくそうだ。写真を撮りつづける大きな理由はそれだ。その問いは実に興味深く、魅惑に満ちている。しかも肉体は変っていくから答えがない。
 現実のなかにある「いま、ここ」と、写真の像のなかにある「いま、ここ」の間には、「越えられない距離が生じており、しかもその距離は「ゼロ」でもある」。この物理的にはあり得ない事実ゆえに、「写真を見る時の僕たちの内部には、世界からこの身を引きはがされたような感覚が生じる」。この感覚を彼は「疎遠」と名付け、「疎外」と言い換えてもみる。
 さて、ここからがおもしろいのだが、20世紀初頭以降の芸術活動は、世界や社会からのこのような「疎遠」を、積極的に先鋭化させてきたように見える。非人間性の内に、制作の喜びや楽しみらしきものさえ、見つけきたように感じられる。それはなぜだろうと彼は問う。果たして自分は写真行為を通じで、その理由にたどり着くことができるのだろうかと。
 これを読んで、ニューヨークで写真を撮りはじめる「以前」と「以後」に自分がこの問題にしつこくこだわっていたことを思い出した。思い出した、というのは現在はこの問いを忘れていたからで、それはとりもなおさず、わたしが集中して撮っていないことを意味するのである。どういうわけか、写真を撮っていると、こうした生きることにまつわる生々しい問いが浮上してくるのだ。ただ作品制作に没頭するだけでは済まない。撮ることと生の実践とが密着してきて、自問自答の人になってしまうのである。
 最後に彼はこう語る。
 「写真術は僕にとって今のところ、かようにパセティックな調子に満ちた実践となっているが、それでもその実践そのものは、なぜかとても楽しい」。
 写真に本気で取り組んでいる人に、この言葉に共感しない人はいないだろう。