近景と遠景の距離の消失、あるいは極端な拡大

タカ・イシイギャラリーで畠山直哉展「線をなぞる/山手通り」がオープン。山手通りを大橋交差点から熊野町交差点まで、南北10kmに渡って撮影を続けたシリーズだ。リリースに載っていた#3148(男が工事の看板を見ている写真)にイマジネーションを刺激され、ある角度と法則をもって山手通りを観察したものを想像して見に行ったが、実際にはもっと緩やかで規則性はなく、山手通りを背に建物を入り口を撮ったものや、通りを離れて住宅街の道を撮ったものもあった。うーむと思いつつ、ギャラリーの方に伺ってみると、ぼくにとってはお散歩写真のようなものだ、と畠山さんが言ってらっしゃると聞き、逆にこのシリーズの特性が腑に落ちた気がした。
 パースを消して近景と遠景とが等価になるように、色と形だけが浮き上がるように撮られている。これは実際に東京を歩いているときに知覚するものに近い。しかも山手通りのような、工事だらけで、ほこりぽくて、遠近に欠ける(つまり情緒を刺激しない)エリアを歩いているときはとくにそうである。私は散歩心を刺激しないようなそういう場所は避けて、横道に入ったりするのだが、そうすると写真の情緒性が強まり「文学趣味」に傾く。だが、知覚と現実の関係を科学的に観察しようとする畠山さんのような写真家は、あえてこういう視覚的雑音に満ちた場所に向かう。しかも彼の手にかかると醜悪なはずのあの大通りに「美」が生まれる。そのフィクション性に、写真家の謎めいた心の動きが感じられる。
 また本展には「Slow Glass / Tokyo」のシリーズも展示されており、これも大変におもしろかった。たしかこれはイギリス滞在中に発案した撮影方法で、カメラにガラス箱をすっぽりとかぶせ、そのガラスの表面におちる雨粒と遠くの風景とを一緒に撮ったものである。例えばライティングされている東京タワーにそのカメラをむけると、ガラスに落ちた大小さまざまな水滴のすべてに東京タワーが写り込む。ピントは水滴にあわせられているので、遠くのタワーはぼける。遠景と近景の極端な隔絶。山手通りシリーズのフラットな視覚の対極にある。
 じっと見ていると気が狂いそうになる。画面を覆う無数の水滴にはどれひとつとして同じ形はない。歪んだタワー像を映す水滴が凸レンズのようにも思える。顕微鏡をのぞいて自然界の不思議をまのあたりにしているような、めまいの感覚。このように水滴とタワーを同時に知覚することは肉眼ではありえないだろう。眼はどちらかを見てしまう、見ようとする。写真だけが与えてくれる実に不思議な視覚世界だ。
 まだまだ書きたいことがあるが、これから長野県茅野に行かなくてはならないので、残りはあとで。(2010.7.25)