大竹昭子のカタリココ

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おしらせ&雑記

アントニオ・ロペス展。                       写真にちかい創作態度から生まれる、まぎれもない絵画。

pic_13_lopez.jpgbunkamuraで開催中のアントニオ・ロペス展を見た。駅構内などに貼られている、街路を描いたポスターにお気づきの方もいるだろう。ビクトル・エリセ監督の「マラルメの陽光」によって日本にも一躍知られるようになったスペインの画家。驚愕すべき描写力の持ち主だ。

ポスターを見てだれもが思うのは「これは本当に絵なの?」という問いだろう。写真と見まごうほどの克明さ。しかもポスターに載っているのは作品の「写真」だから、なお一層、写真との差がわかりにくい。

だが展覧会を見わたせば、写真とはまったく別物であるのがわかる。筆のタッチもあるが、それ以上にロペス自身が写真という形式を意識した上に、それに出来ないことをしようとして絵に向かっている、ということがわかってくるのだ。

初期の作品には、かなりシュールな雰囲気をもつものがある。具象的表現だが、現実との整合性は眼中にない。あるがままを写しとることに使命感を燃やすのではなく、もっと複雑で入り組んだ関心により、画布にむかっている。ところが、時代が下るにつれて現実とのズレは背後に隠れ、より現実に接近していくかのようだ。だが、ズレはつねに潜んでいる。ただそれが見えにくくなってゆくだけなのだ。そこがとてもスリリングである。

古い画家のように思いがちだが、1936年生まれで、いまも活躍している。たとえばおなじように街路の風景や室内を描いたエドワード・ホッパーは1982年生まれだが、ロペスは彼よりも50歳以上も若い。日本の写真家でいえば森山大道や中平卓馬の世代だ(彼らは1938年生まれ)。

フランシス・ベーコン展のところで、時代が写真に移行しているときに、画家としてどのように絵に立ちむかうべきかを彼は考えただろう、と書いたが、ロペスも同様である。いや、リアリズムに関心があったから、ベーコン以上に写真のことは深く意識しただろう。

会場で上映されていた映像のなかでロペスは、自分には必ずモデルが必要だと述べている。モデルが要るということは、実物を目の前にしなければ絵筆が動かせないということだ。写真にとって「現実」は必須だが、絵画では必ずしもそうではない。イメージを構成して描くことは可能だし、写真が登場して以来、多くの画家が写真を見ながら描くようになった。また、写真との差別化をはかろうとして抽象絵画の動きが芽生えたことは、ベーコンのところで述べたとおりだ。

ロペスは、たとえば<グラン・ピア>を描くのに、おなじ場所に、おなじ季節、おなじ時間に、7年間つづけて画布を立てたようだ。光の変化が早いので、20分から30分の勝負だったらしい。これは写真家の定点観測の行為にちかい。同じ場所に三脚を立て、繰り返しおなじ風景にシャッターを切る。だが、当然ながらカメラと人間の目では構造がちがう。レンズがとらえるのはひとつの位置から見た構図だが、人間は一ヵ所に立っていても、目はいろいろな方向に動く。身は不動でも、視界の及ぶ範囲を体験するのが、人間の視線の特徴なのだ。

写真ならば一瞬にして捕獲できるはずの風景を何年もかけて描くという、時代に逆行しているかに見える行為を、彼はどのような興味をもってつづけているのだろうか。

ひとつは、目で感覚した現実を二次元に置き換えることへの興味だろう。つまり絵画とはなにか、という根本的な問題だ。ロペスの風景作品は遠近のあるものが多いが、それを描くときは手前から遠くに筆を動かしていく、と映像のなかで語っている。面で攻めていくわけではなく、毎回、自分の立ち位置にちかい場所から筆を入れて、だんだんと遠くに伸ばしていく。このときの体感を、鳥になって飛んで行くような感覚だ、とおもしろい表現をしている。

もうひとつは時間への興味だろう。世界に存在するものは、すべからく動いている。花瓶の花も刻一刻と開き、しおれていく。マルメロの果実だってそうだ。光も同様にいっときも止まっていない。カメラはそれに瞬間的につかまえるが、手を使うロペスは、そうした変化を自分のなかで反芻し、絶えず選択を重ねていくことになるだろう。そのような時間を、彼はとても慈しんでいるように思える。鳥になって飛んでいくような感覚、という言葉も、だからこそ生まれるのだ。

th-1.jpeg「対象の価値を作品より優位におく」という会場にあった彼の言葉に興味を覚えた。写真の精神にちかいものを感じる。いい写真を見たときわたしたちは、撮った人のことを一瞬忘れるくらい対象に引き込まれる。おなじように、対象に魅入られることが大前提であり、そのように自分の奥深く入り込んでくる現実にむかって、彼は絵筆を動かすのである。

制作態度はとても写真にちかいが、出来上がった作品はまぎれもない絵画であること。わたしにとって、アントニオ・ロペスの謎と魅力は、まさにこの点に凝縮されている。(2013.5.26)



6月9日「ことばのポトラック vol.10」開催、 寺山修司作の貴重なテレビドキュメントも上映!

第10回ことばのポトラックでは、これまでとはちょっと毛色を変えて、2本のTVドキュメンタリーの上映とトークをいたします。映像の1本は東日本大震災の直後に被災地に入ったテレビ記者、金平茂紀さんが南三陸で知り合ったおばあさんを追った「わたしは生きている」です。自らの運命を受け入れ、乗り越えていくおばあさんの姿がとらえられており、こういう力強い番組が作られているのかと驚き金平さんにそう伝えると、過去にはもっとすごいものが作られていたと教えてくれたのが、1966年前に寺山修司が中心となって制作した「あなたは……」でした。当時の東京に暮らす人々が街頭インタビューに答えているのですが、実に生き生きした姿に圧倒されました。いまのわたしたちに、彼らのようにストレートに飾らずに、カメラにむかって言いたいことを口にすることが出来るでしょうか!?少なくともわたしは無理です。すっかりヒネた、疑り深い人間になってしまいました……。これらの映像からは、さまざまな社会的制約にしばられて萎縮したり、何事にもニヒルな態度しか見せなくなった私たちの現在が透けて見えるようです。
会場には「わたしは生きている」を作った金平茂紀さんと、映画監督でテレビ番組も制作する是枝裕和さんにお越しいただきます。出演者と観客が一緒になって、わたしたちのなかに埋もれていることばのエネルギーを掘り起こしてみましょう! 寺山修司没後30年で各地でさまざまな催しがおこなわれていますが、「あなたは……」が見られるのはこのときだけです。予約はサラヴァ東京の予約フォームからどうぞ。(2013.5.12)

森山大道の二冊の写真集について「書評空間」に書きました。

img_isbn9784309274027.jpgimg_isbn9784309268279.jpg『実験室からの眺め』と『サン・ルゥへの手紙』をペアで取り上げたのにはわけがあります。『実験室からの眺め』は世界で最初の写真が撮影されたサン・ルゥの地で撮られたもので、『サン・ルゥへの手紙』は1990年に出た版の新装復刊ですが、私はここ20年間の森山の目をみはるような活動の根拠をここに見るのです。写真家の活動には時を経てみないとわからないことが多いです。→書評空間

毎月1日更新の迷走写真館。今月の写真はこれです!

と書いて写真をアップしようとしたら、なぜだか縮小した画像がどこかに紛れ込んでうまくいきません。ですので、だれのどんな写真なのかは、ウェブを見てのお楽しみということにいたしましょう。

原稿を書く前はアタマのなかは真っ白で、さあて、何を書くかなあ、という感じでパソコンにむかいましたが、じっと写真を見つめているうちに、しだいに言葉がじわっと湧きはじめ、最後には思いがけない場所に着地しました。写真がわたしを見知らぬ場所に連れていく……。
ギャラリーときの忘れもの
*『NY1980』のサイン本をギャラリーときの忘れものにてお求めになれます。ギャラリーのホームページ上部「カタログ」をご覧下さい。
*ポートフォリオ『Gaze+Wonder』は残り3箱となりました。