大竹昭子のカタリココ

朗読イベント〈カタリココ〉&トークイベントのお知らせと「日々雑記」

おしらせ&雑記

写真集の人気と森山大道プリンティングショーついて、記事を書きました。

複製で輝く写真の生命----- 「オリジナル」重視の欧米で評価              大竹昭子

 二〇一〇年、ニューヨークで一風変わった写真のイベントが行われた。会場に用意された森山大道の写真コピーを参加者がセレクトして自分だけの「森山大道写真集」を作るというものだ。森山が手ずから刷ったシルクスクリーンを表紙にあしらいサインを入れたそれは、複写コピーのチープさが輝きに転じて生々しさを放った。
 こうしたイベントは以前なら一笑に付されただろう。作品の価値はオリジナル・プリントにあるという考えが主流だったからだ。この傾向は七十年代に欧米で広まり日本にも浸透したが、興味深いのは日本では同時に印刷された写真の人気がしぶとく続いたことだ。六十年代前後にユニークな写真集が多く出たり、雑誌が写真家のメインの活動の場だったことが大きい。現在も個人出版や冊子も含めて、これほど多くの写真集が出ている国はないだろう。
 欧米のコレクターがそれらを熱心に集めだしたのは二〇〇〇年を過ぎた頃からだろうか。プリントに比べてモバイルな存在で伝播が速く、とりわけ六十年代の写真集は人気が急上昇した。
 昨年訪れた国際的な写真フェア、パリフォトでも日本のヴィンテージ写真集が多く販売されておりその高値に驚いたが、面白いのはその先で、彼の地でも印刷された写真にポジティブな目がむけられるようになったことだ。
 冒頭にあげたプリンティングショーの熱気はそうした変化なしには考えられない。企画者はアメリカ人写真編集者アイヴァン・ヴァルタニアン氏。日本の写真集の歴史をひもとくうちに、七四年に森山が行ったプリンティングショーを知り、再現したいと願った。当時、森山は写真が絵画のように鑑賞されることに違和感を持ち、苦肉の策として行ったのだが、ヴァルタニアン氏はそこに欧米の写真史にはない特徴を感じ取ったのだ。
 セレクトに二時間も悩む人、一つのイメージだけで一冊つくる人など、それぞれのこだわりが写真的で興味深かったと森山氏は語る。四十年ぶりのイベントは大成功で五百部がすぐに売り切れ、開催の申し込みが各地で殺到しているという。
 サイズや焼きを写真家がコントロールし一定枚数だけを制作するオリジナルプリントは、複製可能なメディアである写真を美術作品として流通させる。その一方で印刷やコピーの発達により、生みの親を離れるように写真が移動範囲を拡大したのも事実だ。 時間をかけて焼きだしたプリントには「美術品」のような抗しがたい魅力があるが、彷徨い続ける生命体のような写真にもリアルなものが感じられてならない。どちらも等しく写真の歓びなのだ。二つが両輪となって進むことで写真の世界はより豊かになるだろう。(「朝日新聞」2013年1月16日夕刊)

松本竣介展を見た。

images.jpeg正月休暇を見逃していたものを見るのに費やす。世田谷美術館の松本竣介展もそのひとつ。1940 年代の街・都会・建物の作品にとくに惹かれた。何度もスケッチし、パーツを組み替え、別の街に仕立てている。その静かな興奮と歓びが伝わってくる。

「風景(駅の裏口)」を一目見て代々木駅東口だとわかった。わかるとものすごくうれしいのはなぜだろう。いまもこのままの姿をしている。忘れられない形状である。描きたくなる気持ちがわかる。描くことは愛なのだろう。

戦時中、彼は家族を疎開させて自分ひとり東京に残った。十代で聴覚を失った彼は徴兵を免除されたのだった。家に帰ってもだれもいない。自分ひとりの空間とひと気のない街はそのままつながっている。街と、建物と密かに交信していたのだ。(2013.1.7)

2013年のカタリココ

2013年のカタリココは、5月、7月、9月、11月にいつもの4店でおこないます。ゲストのラインナップは3月に発表の予定です。これまでのカタリココの詳細については、目次の「これまでのカタリココ」を、レビューについては「カタリココ・レビュー」をクリックしてください。

テートモダンの「ウィリアム・クライン+森山大道」展について

テートモダンで開催中の「ウィリアム・クライン+森山大道」展について日経新聞に書きました。掲載記事は以下に。(2013.1.6)
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東西写真家の対話に焦点「ウィリアム・クライン+森山大道」展

東洋と西洋の文化の違いは、明治以来さまざまな芸術分野に問いを投げかけてきた。とりわけ写真は装置そのものが「西」からやってきたから、写真家はそれをどう肉体化するかに苦心してきたはずである。
現在、ロンドンのテートモダンで開催中の森山大道とウィリアム・クラインの二人展は、その意味でとても興味深い企画だ。
森山大道への関心と評価はここ数年急速に高まっているが、今回の二人展はクラインとカップリングしている点が大変ユニーク。おそらく東西の写真家の二人展としては欧米初だろう。
森山の写真を特徴づけるアレ、ブレ、ハイコントラストなどはクラインの『ニューヨーク』が原点というのが定説だが、写真展を見ているうちに造形的な面白さだけが理由ではなかったはずだと感じた。森山は初期の頃からカメラを感覚器官のひとつのようにしてスナップすることに肉体的な興奮を覚えてきたが、その感覚と表現様式とがぴたりと重なっていることに圧倒されたのではないか。
クラインには写真家の自意識はなく、都市四部作を刊行後は絵画や映画に関心を移し、後半の展示には写真が少ない。ところがそれにつづく森山大道の空間は彼の眼が切り撮った世界の断片に埋め尽くされている。
それらを見て改めて思ったのだった。クラインの写真が示唆したアレ・ブレなどの表現形式が、彼のなかで世界を断片として見る視線に発展したことを。断片の収集を通じて現実世界と虚構世界を往復することに、彼は写真を続ける意味を見いだしたということを。
作品性よりも行為性を重視したこうした写真との対話は、日常の出来事を俳句や短歌に詠んだり、日記文学を生み出した日本の伝統と一脈通じるものがありそうだ。肉体が感知したものを表現形式に重ねあわせて、終わりのない自問自答をつづけていく。
かつて森山がクラインに触発されたように、この写真展に鼓舞され、自分の写真観に確信を持つ写真家が「西」にも現れるかもしれない。やはりもっとも面白いのは地下の水脈がつながり、地上に噴出することなのだから。                                    (2012年12月28日 日経新聞夕刊) 

映画「ハーブ&ドロシー」を観て考えた。アートの本質とは?

今年の初映画は見逃していた「ハーブ&ドロシー」。写美1階で上映しているのを知り、見に行く。アート・コレクションに夢中になった夫婦、というシンプルな内容を想像していたがまったくちがった。現代アートの状況について切り込んでいくような奥深さがある。さる有名詩人Tがチラシに、言葉や知識にとらわれずに作品の美とその背後の人間を発見した、と書いていたが、そういうナイーブなレベルの話ではないのだ。

ハーブは大学で美術を学び、自身も絵を描いていた時期がある。美術史の勉強もしている。外見は無邪気そうに見えるが、ただ単に「これが好き」というだけでばらばらとコレクションしているわけではない。ただアートへの向かい方が美術業界の約束事や批評の文脈にのっとってないというだけ。むしろ本質的であるゆえにそこから逸脱していく。

無邪気なコレクターではないのは、彼らのコレクションがミニマルアートやコンセプチュアルアートなど、もっともわかりにくいとされているジャンルからからはじまっていることにも現れ出ている。アーチストのアトリエを訪ねるとふたりは過去の作品もスケッチも見られるものはすべて見たいと希望する。作品を買い上げれば定期的に作家を訪問し、創作の方向がどう変化していくかを見届ける。とてもに粘り強い。

究極の目的は作品そのものではない、というハーブのせりふがあった。アーチストの創作行為に何よりも深い関心を注いでいる。この作品のときはなにを考えていたのか、どういうインスピレーションによって次の段階にいったのか、そうした営みそのものがアート表現であり、その痕跡が明瞭に現れ出ているものにハーブは直感的に飛びつく。ハーブ自身が真剣に絵に取り組んでいた時期のあったことと無関係ではないだろう。

完成された作品よりも思考の軌跡に惹かれる傾向は、クリストの初期のドローイングを求めていることにもはっきりと現れ出ている。でき上がった「カーテン」よりも、そうした発想の中心にあるもの、試行錯誤の果てに実現させた思考の核となるものを初期のスケッチに見い出そうとする。きっと作品はあとに残った「証拠品」くらいな感じなのだろう。

彼らがアーチストと深い交流を持ったことを映画のなかでだれかが、「彼らはアート・コレクターではなくて、フレンズ・コレクターなのです」と語っていたが、このセリフは矮小化だ。創作の過程こそがアートの本質なのだから、その現場に立ち会い、作家に問いかけるのは当然であり、結果としてアーチストと親しくなる。友だちになることを求めて出かけていくわけではない。

美術館の展示室でコンセプチュアルアートやミニマルアートを見ると、「時代の残骸」を見ているような気分になることがある。民族博物館に使われなくなった民具が展示されているのと似て、かつては大活躍したはずなのに、いまはどのような意味があるかもわからない。

彼らが初期からコレクションしているものにドナルド・ジャッドの作品があるが、一見したところ「ペイントされた鉄の箱」である。もしこれが蒔絵の箱であったら、だれもの目にも技術の高さと美しさがわかるだろう。だがジャッドの箱を見て、そこにアーチストの関心や思考や技術を読み取るのはむずかしい。近代以降のアート作品には目で理解できるプロセスが欠如してしまったのだ。

そうした距離感は、作品を見つづけたり、作家と対話することでしか埋まらない。あたかも石臼を使っていた人の言葉によってそれが生き生きとしたものになるように。そのときの感覚を想像してみることで他者の体験が自分のいまにつながってくるように。作品や作家との対話にふたりが人生の大方の時間を投じたのはそのためだった。

ふつうの人はもちろんのこと、評論家ですらなかなかそういうことはしない。ひとつは作品と作家を分けて語るのが評論の潮流になったからだが、それ以上に資料だけで考察するほうが楽だからというのが大きいだろう。アーチストと付き合うのは手間なのだ。何を言い出すかわからないし、言っていることのウラもとれない。そのまま鵜呑みにすると面倒なことになる。

このようにして、美術館のアートコレクションは作り手から離れて保管されるだけの冷ややかなものとなっていった。人の足が現代美術館から遠ざかるとしたら、その冷たさに対する拒否感だ。人間が作ったものなに、そのように感じられない。どこに意味があるのかわからない。価値を教えてくれるのはその美術品の価格だけなのだ。現代社会が直面しているのと同じような困難が、美術行政や批評界にも立ちはだかっている。

思えば、わたしが『眼の狩人』と『彼らが写真を手にした切実さを』で写真家にしたのも、似たような行き詰まりを写真界に感じとったからだった。写真家の「生きさま」をドキュメントをするためではない。人生=写真だと言いたいわけでもない。ただ生きることのなかからしかそれらは生まれなかったということだ。この「生きること」には生きている時間におこなうすべてのことが含まれる。思考することも、読書もすることも、ものを考えることも、撮影することも、写真集を編むことも「生きる」時間のなかでおこなわれるという意味において、等価なのだ。

ハーブ&ドロシーはアート表現をそのようなものとしてとらえている。作品を部屋にかけ眺めて作家と対話することは彼らの「生きる時間」に含まれている。万人にではないけれど、ある人間にとって生きるのに欠くことのできない切実なもの、アートの生命はそこにあるのだ。(2013.1.5)

あけましておめでとうございます。今年の抱負は?

新しい年が幕をあけました。いかがお過ごしでしょうか。
だいぶ前から年賀状というものを止めてしまいましたが、いただいたみなさま、この場を借りてお礼をもうしあげます。ありがとうございました。

昨年のいまごろは単行本『ことばのポトラック』の編集作業中で、4月に無事刊行できるかとはらはらしながらやっていたのを思い出します。なんだか遠い出来事のように感じますけど。
それと平行して毎日新聞の連載もあって週1回文章と写真を提出、ときには手描きの地図も入れるので大忙し。東京の凸凹のことで頭がいっぱいでした。

7月にはその連載が『日和下駄とスニーカ』のタイトルで洋泉社から出版、そして暑い夏の到来。ほとんど仕事にならずに日本脱出。秋の声とともに『NY1980』のポートフォリオと写真展開催と写真集『NY1980』の刊行の作業がはじまりました。終わって一息ついたところで今度はパリ・ロンドン。パリはパリフォト、ロンドンはテートモダンの森山大道+ウイリアム・クライン展のためでしたが、これがなかなか新鮮な体験で、写真展や絵画展を見るためにもっと気軽に海外に出ようと思いました。

今年の初仕事となる単行本の作業に昨年末から入ってます。どんな本かはまたwebに書きますが、なかなか斬新な内容になりそうです。写真関係です。
そしてもちろんカタリココがあります。5月、7月、9月、11月に開催予定で、年末には店主のみなさんと忘年会をかねて企画会議をしました。3月にはラインナップの発表をおこないますのでご期待ください!
「ことばのポトラック」はいまのところ2回予定が決まってます。1回目は3月16日。「春に」と題して7、8名の表現者にご出演いただきます。6月にはTBS報道局の金平茂紀さんをゲストにお迎えして映像のイベントを。金平さんの情熱が飛沫となって散るでしょう!

今年は創作の時間をもっと増やしたいと思ってます。昨年は『IN THE CITY』(夏号)と『群像』(12月号)にひさびさに短編小説を書き、やっぱりこちらの路線も充実していきたいなと再確認しました。集中して書いて1冊まとめたいと思ってます。小説は意識して書こうとしないかぎりはなかなか書けないものですから、こうして公言して自分を追い込もうという算段です!