大竹昭子のカタリココ

朗読イベント〈カタリココ〉&トークイベントのお知らせと「日々雑記」

おしらせ&雑記

ツイッターはスナップ写真に似ている。

 ツイッターをはじめて半月ほどたったが、はっきりしたのは自分が共同体が苦手だということ。前からわかっていたけど、改めてそう思った。ツイッターは緩やかなコミュニティーが形成されるところにおもしろみがあるのだろうが、それがどうもキモチ悪い。学校が嫌いだったのも、会社勤めが出来ないのも、たまり場をもてないのも、読者にファン層が形成されないのも、みんなそこに関わっているような気がする。人とのまじわりが嫌いなわけではないが、仲間意識が肌にあわない。
 表現する人はもともと孤独を求めて(あるいはそれが好きで)この道を選ぶのではないかと思う。少なくとも私はそう。ある著名な詩人のツイッターに、「6万人(だったか?)の方がこれを見てくださっていると思うと感激です」と書いていたが、なんと能天気なことをと呆れた。6万人はただの数字にすぎないのに!
 ライブの場に集まってくれた観客を前にして「こんなに集まってくれてうれしいです!」というのはわかる。体を運んで来てくれ、実際に向かい合っているのだから、そういう感情が素直に湧いてくる。でも電脳空間に表示される数値に感激し、しかもそれを世間にむかって口外するのはナイーブすぎる。
 そうは言っても私もフォローの数字が上がっていれがいやな気はしないのだ。それどころか、朝っぱらから思わす口笛が出てしまったりするのである。でもふと我に返り、そんなことでいい気になっていていいのか?と自らに突っ込みを入れる。表現とは応答のあることを求めずに何かを問いかける行為なのではないか。世間にではなく、世界にむかって。反応欲求症候群になってはいけない。
 ならツイッターをつづけることに私自身はどんな面白みがあるかというと、言葉で写真をスナップしているような感じがする。それがおもしろい。あくまでも自分にとってであって、他人がどう思うかはわからないけど、過去の自分の文面をツラツラと読んでいると、スナップ写真を見ているようにそのときどきのことが鮮明によみがえってきて感慨深かった。(2010.8.20)

マイア・バルーの実験精神に喝采!

R0011454_convert_20100811221027.jpgR0011476_convert_20100811223101.jpg昨晩は渋谷アップリンクでマイア・バルーの初のソロ・ライブがあった。バンドではいろんな場所でやっているが、ソロははじめて。アカペラではじまり、ギターとフルートの弾き語りで1時間ほど、実に奥行きのあるステージを演出、感服する。
一部にソロ出演したチェリスト、ベンジャミン・スケッパーとのドュオもなかなか味わいがあって聴かせた。互いのライブをその夜はじめて聴いたそうだが、すぐに即興演奏してしまうのがすごい!こういう実験精神あふれるステージには、ただ観客として演奏を拝聴するだけにとどまらない、何かが出来上がっていく現場に立ちあっているようなスリルがある。毎月つづけていく予定らしいが、何年かのちにマイアが超有名アーチストになったとき、このアップリンクのソロ・シリーズは伝説になるだろう。あれを知っているんだ!と未来のファンに驚かれるはず。(2010.8.11)

葉山と、浜田知明と、夜明けのひぐらし。

R0011437_convert_20100808113404.jpg 金曜の夕方から葉山の久留和海岸の近くにある友人宅に留守番に来ている。正確には葉山町ではなく、横須賀市だが、御用邸あたりまでは漂っている観光地っぽい雰囲気が、長者ヶ崎を越えて三浦半島にのびる海岸線が見えるあたりから一気に変わる。スーパーもコンビニもなく、水着姿でデレデレ歩いている人もいない、のどかで気持ちのよい海辺町。
 友人宅は高台にあり、2階のベランダ前には180度の視界が広がり、海と山が同時に望める。ここでの日課は単純で仕事・読書・散歩の繰り返し。そのシンプルさがとてもよく、一日はこんなに長かったかと思うほど時間がたっぷりある。
 昨日は日差しが傾いてきた頃、神奈川近代美術館葉山に浜田知明の展覧会を見に行った。大正6年生まれで、93歳のいまも現役、諷刺の利いた版画作品のほか、途中からは彫刻作品も作った。作品を見るのははじめだったが、2000年以降の彫刻作品に心が動いた。それまで足長、腰高で、頭が大きく、鼻のとがった欧米人に似た人物像だったのが、最近作では筋肉が弛緩して形の崩れた、かろうじて人間の形を留めているような人物に変わってきたのだ。好みにもよるだろうが、私には80歳を過ぎて作家が作りあげた、諷刺よりも悲哀感の漂うこの人物像のほうが感覚的にフィットした。世間は夭折の作家が好きだけど、本当におもしろいのはひとりの作家が長い人生をつうじてどう変化していくかではないだろうか。少なくとも私にとってはそう。R0011419_convert_20100808114923.jpg
 帰りは一色海岸を通り、長者ヶ崎の裏手の尾根を歩いてもどった。夏にしては珍しく、富士山が夕映えに赤くそまって広重の版画のようにくっきりと見えた。得した気持ち。
 東京では日の出とともに目が覚めるなどということはめったにないのに、ここでは2階の窓辺で寝ているので空の明るさで目が開く。今朝もそうだったが、日の出と同時にカナカナカナとひぐらし蝉が鳴きだしたのに驚いた。ひぐらしは夕暮れに鳴くものと思っていたが、夜明けにも鳴くとは! 体が日の出と日の入りに反応するように出来ているのか。ひぐらしのイメージが一変してしまった。(2010.8.8)

長谷川 潾二郎 という画家を知ってますか?

長谷川画集猫がそのポーズをしてくれなかったゆえにとうとう髭が描き込めなかったというエピソードをもつ、徹底した現場主義者の画家、長谷川 潾二郎。彼の『長谷川 潾二郎画文集 静かなる奇譚』(求龍堂)を、今でている『家庭画報』9月号で書評しました。今年1月からはじまったこの書評の連載も、あと3回で終わりです。今度まとめてとりあげた本をご紹介したいと思いますが、まずはこの本を。長谷川 潾二郎を知っている人はもちろん、知らない人はぜひ。文章もじっくりした筆運びでなかなかよいです。8月22日夜、 NHK教育の「日曜美術館」でも再放送されるそうなのでこちらもどうぞ!(2010.8.5)

汚くて、危なかった30年前のニューヨーク。

11月に東京と大阪で行う写真展の準備をはじめた。はじめて一眼レフを買って写真を撮ったニューヨーク時代のモノクロを展示する。あの頃のイーストヴィレッジは汚くて、危なくて、放火が多くて、緊張を強いられる環境だったが、ひとたびカメラを手にすると、撮りたいものだらけで興奮した。撮りはじめたのは冬だったが、いくら街を歩いても寒く感じなかった。ああいう高揚感はあとにも先にも味わったことがない。写真との出会いは、ニューヨークでなければありえなかったかもしれない。
 Google Earthができたとき、当時住んでいた東9丁目のアパートを検索してみたところ、とてもきれいなっているのにびっくりした。建物そのものは同じだが、1階のストアフロントにファンシーな店舗が入っていて、青山か代官山かという感じだった。あの頃、あたり一帯はウクライナ人のコミュニティーで、アパートの大家もそのひとりだった。ボルシチやロールキャベツを食べさせる「キエフ」という名前の安食堂があって、ウクライナ人以外は何をしているかよくわからないボヘミアンが多かった。展示する写真には、そんなころのゴミとガラクタと廃虚だらけの、無愛想だがいかにもニューヨークらしい顔が写っている。秋になったら暗室作業をする。久々に入る暗い空間がどんな想像を引き出してくれるか楽しみだ。 (2010.8.4)
*写真展の詳細は「その他のイベント」欄にアップしました。

「写真家」の自意識はなかったマン・レイ

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新国立美術館で開催中のマン・レイ展を見に行く。入口に入場を待つ観客がとぐろを巻いている!と思ったら同時開催中のオルセー展のほうでほっとした。すごくいろんなことをした人だったのがわかる。写真は記録のために撮りはじめそうで、「写真家」の自意識はなかった。途中、雑誌のポートレイトで食べていた時期もあるが、本人は不本意で、あくまで「わたしは芸術家」というスタンス。でも、作品指向はない。着想やアイデアを抱いてそれを実行すること、作りつづけるエネルギーを維持することが芸術の奥義と考えていたようだ。
 作品には執着しないが、作品の記録は克明にとっていたところがおもしろい。写真を撮りカード式にファイルしていた。晩年、ブレイクすると、その記録を参考にエッチングでコピーして売ったりしている。何かを極めるのではなく、アイデアを追っていく。こちょこちょと作っては悦に入る。 自分の身のまわりにいそうな感じの人のようにも思えるが、生涯を通じてしつこくモノをつくり続ける人は少ないのもたしかだ。いちばん興味深かったのはパリの彼のアトリエの映像と、妻ジュリエットの回想。倉庫みたいな空間を改装して住んでいた。展示作品にすごいと思うものはなかったけど、こういう人だったとわかったのが収穫。だいたいシュールリアリストの作品は私にとってみんなそんな印象で、マルセル・デュシャンも作品そのものをいいと思うことはあまりなく、こういう人がいたということが感慨深い。作品保護のため会場がすごく冷えており、見終わって外に出てしばし太陽の光で身を解凍し、人心地ついた。(2010.8.1)

追記:いまアップした画像を見て思ったのだが、この唇の作品も画像で見たほうが迫力が感じられる。そういうことだったのか!と納得。複製されるとおもしろみが際立つ。そういう意味で写真=複製時代の人だ。