大竹昭子のカタリココ

朗読イベント〈カタリココ〉&トークイベントのお知らせと「日々雑記」

おしらせ&雑記

6月17日のカタリココ、予約受付中です。

ゲストは写真家のホンマタカシさん。会場は神保町のボヘミアンズ・ギルド。昨年出された『たのしい写真』はとてもいい本で、書評空間でも取り上げました。彼とは話したいこと、伺いたいことがいっぱいです。ご期待ください。詳細は「これからのカタリココ」へ。

5月の書評空間では以下の2冊を書評しました!

■『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』ジェレミー・マーサー著/市川恵里訳(河出書房新社)
パリにいまも実在する「無料宿泊所」を兼ねた書店の、理想主義と人間くささが混在する空間。
■『極東ホテル』鷲尾和彦(赤々舎)
東京のイーストサイドにある外国人用ホテル。旅人の寄る辺なさを浮き彫りにした写真集→書評空間

6月3日、ジュンク堂本店で写真トーク開催!

6月1日から1カ月間、ジュンク堂池袋店1階で開催される赤々舎との共同フェアにあわせて、6月3日にトークショーが開催されます。トークの相手は赤々舎代表の姫野希美さん。出版不況にもめげず、つぎつぎと写真集を出しつづけている赤々舎のパワーには驚かずにいられませんが、このチャンスにこれまであまり表に出てこなかった姫野さんを質問ぜめにして(!)その秘密に迫りたいと思います!

■姫野希美(赤々舎代表)×大竹昭子トークショー  
日時 2010年6月3日(木)午後7時~ 終了しました
場所 ジュンク堂本店4階喫茶室
料金 1000円
予約 ジュンク堂

6月3日にジュンク堂池袋店で写真トーク。

6月1日から1カ月間、ジュンク堂池袋店1階で、赤々舎との共同フェアが開催されることになりました! 赤々舎の出している写真集から私が10点の写真をセレクトし、「この写真がすごい」的なコメントをつけてパネル展示します。あわせて私の著作も並べますが、3日には赤々舎代表の姫野希美さんとトークをいたします。セレクトした写真を上映して語りながら、出版不況にもめげず、つぎつぎと写真集を出しつづけている赤々舎のパワーの秘密に迫ります。これまであまり表に出てこなかった姫野さんを質問ぜめにする(!)この機会をぜひお見逃しなく! 詳しくは「その他のイベント」に。                         

詩人・川田絢音が発する恒星のようなひかり

R0010591_convert_20100522090544.jpg存在を知ったのは2年前、詩そのものに接したのも去年の秋、とごく最近である。最初のときは出ているはずの現代詩文庫『川田絢音集』が書店で見つからずにそのままになり、昨秋の小池昌代さんがゲストのカタリココのときに、彼女の編纂した『通勤電車で読む詩集』でその人の詩に出会いとても驚いた。すぐに現代詩文庫を求めに書店に走り、それでも足りなくて絶版になっている詩集を古書で探した。そんなふうにして詩に特別深い関心があると言えないわたしのなかに、川田絢音が入ってきた。

5月15日のカフェ・カタリココでは、イタリアを手がかりにして川田絢音と須賀敦子の作品を朗読した。須賀は1971年に日本に引き揚げるまで、イタリア人と結婚して彼の地に暮らした。川田が行ったのは1969年だから、須賀と少し重なっている。川田はいまもイタリアに滞在しているはずだが、そうなったきっかけというのが過激で、美術を巡るツアーで行ったら気に入り、帰国せずにそのままとどまったというのである。日本ですでに『空の時間』という詩集を出して大きな反響を得ていたが、注文されて書くのは自分の道ではないと感じていた、祖母や母が趣味人で家庭のなかにディレッタント的な雰囲気があるのがまどろっこしかった、などと現代詩文庫のインタビューで答えている。「自分はなにかするなら本気でしようと思いました」と。作品の一篇一篇には、そんな鋭さをもった彼女が「本気でしよう」と決意した対象がほかならぬ詩であったことがストレートに出ていて深く胸をつかれるのだ。
須賀はカトリック左派のつくったコルシア書店の活動に加わった日々のことを『コルシア書店の仲間たち』で書いたが、その最後に「若き日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」という印象的な言葉がある。川田絢音は生まれながらにして孤独に惹かれる人なのかもしれない。孤独の時間は経験や体験を濾過し、世界とのあいだの夾雑物が消えてひとつになる感覚をもたらす。それこそが、彼女にとって生の実感につつまれるときであり、詩が生まれるときなのだ。
どんな詩が出来てくるかもわからない、何も出来ないかもしれない。「詩をさぐることが自分が半歩歩むことをさぐるわけで、ただ詩という形を求めることでその半歩を歩めるように思うのです」。
そんな彼女にとって「現実」とはどんなものなのか、2007年に出た『それは 消える字』のなかの「カサブランカ」という詩には、それがあらわされていて感動的だ。                     

 
カサブランカ


というファックス屋で


いま送ったのが詩というと


店のモロッコ人の眼がおののいて光った


詩の影を見て 


人の思いが圧縮される 


夏の列車で国を脱出してきたばかりの人に


詩を書いていると告げた時 


こわばった頬がゆるみ 


重い口で


詩はアルバニア語でもpoeziaと教えられた


詩と言うだけで


激情のように


なにかを破る


読まれていないのに


詩が 


伝わることがあって


手に入れることのできない現実のものを


獲たような思いがした

 

(2010.5.22)

淀橋の路地を歩く。「虚構の夜」に引き込まれる。

R0010664_convert_20100523074038.jpg街を歩ける週末がやってきた。都心の地形を歩行によってからだに刻みつけてゆくのは、何よりも高揚するひとときである。最近、夢中になっているのは北新宿や西新宿の界隈、かつて「柏木」「淀橋」と呼ばれた神田川の流域だ。土地の起伏が細かく複雑で、小さな建て売り住宅があるかと思えば、南側の崖地には屋敷然とした家が残っており、寺や淫祠も目立つ。宅地のあいだにいきなり商店街が現われることもあるが、これは昔の街道の名残だろう。曲がりくねった細道は、神田川に流れ込んでいた支流が暗渠になったものと想像できる。とくに西新宿五丁目界隈に錯綜する路地は、川どころかドブの流れる溝を道に仕立てたような様子で、もとは相当に湿地帯だったのがわかる。人ひとりがようやく通れるほどの細さの道を、猫になったような気持ちで歩いていく。
午後6時過ぎをすぎて闇が降り日中とはものの見え方が変わってくると、意識がますます冴えて研ぎ澄まされてくる。谷底を這う路地のむこうに西新宿の高層ビルの明かりがまたたいている。目に入るものすべてが新鮮で、シャッターを切る回数が増えてくる。デジカメは光がかせげるので少々の暗さでも押せるし、なによりもモニターをのぞいたとたんに別の光景がそこにあるような驚きをもたらす。肉眼で見るよりずっと明るいのだ。
最初はやや戸惑うが、押す回数が増えるうちにデジカメが生みだす「虚構の夜」に引き込まれていく。写真家の十文字美信さんが「学生の課題に夜の街を撮ったものがやたらに多い」と言っていらしたのを思い出す。イージーすぎるというニュアンスだったが、自分で撮ってみるとよくわかる。これまで見たことのない、芝居の書割りのようなシュールな情感があり、しかも撮ってすぐに見られるから気持ちがどんどんドライブされていくのだ。空腹でたまらなかったのに、途中からはそれも忘れてしまい、異界をさまよっているような興奮がわきおこってきた。

6月4日に東直子さんとトークします!

東直子さんの新刊『甘い水』と私の『ソキョートーキョー』は、ストーリーは違っても大きな枠組みに共通するものがありそうです。互いに用意した質問を相手になげかけながら、核となるものを探ります。会場からの質問もOK。それぞれがリクエストした箇所を朗読するコーナーもあります。どうぞお楽しみに!→青山ブックセンター

「本の島」とはどんな構想なのか?

いま青山ブックセンターで、ひとりの編集者のつくった本を展示するという、珍しいフェアが開催されています。昨年亡くなられた青土社の津田新吾さんの手がけた本たちです。彼は生前、「本の島」という出版活動の構想を抱いていました。それはどんな構想だったのか、どのようにその考えを発展させていくことができるのか、5月16日に管啓次郎さん、野崎歓さん、鄭暎惠さんによるトークイベントがおこなわれます。本つくりや流通に関心のあるかた必見! 私も観客として参加する予定です。会場でお会いしましょう。→青山ブックセンター

まだまだつづく『ソキョートーキョー』のブックレビュー。

■現在発売中の『フィガロ』6月号では、フライング・ブックス店主の山路和弘さんによる、書評そのものが作品であるかのような名文が読めます。
「恋から呪術までが絡み合い、甘酸っぱさと渋味が絶妙にブレンドされた物語となり、ぐいぐい読者を引きこんでいく。特にあいさつの際に日々の夕日を詩的に表現するという習慣や、月光を吸って身体に力がみなぎるといった幻想的なシーンは、私たちの身近にあって、かつその美しさを忘れているものを小さな哺乳類の視点から気づかせてくれる」
■また『婦人公論』(5月7日号)には、仲俣暁生さんによる「低い目線からの都市批評である」というユニークな書評が載りました。
「ネズミたちの都を舞台とするこの寓話風の物語には、彼女がかつて住んだニューヨークでの体験も生かされており、ネズミの言動に不思議なリアリティがある。現実の東京も、この物語の「鼠京」同様、次第に他民族都市になりつつある」