大竹昭子のカタリココ

朗読イベント〈カタリココ〉&トークイベントのお知らせと「日々雑記」

おしらせ&雑記

4月の書評空間では以下のものを書評しました。

■『ケンブリッジ・サーカス』柴田元幸著(スイッチ・パブリッシング)
六郷、イギリス、ニューヨーク、オレゴンと記憶の場所をたどるうちに浮き彫りになる通過点としての自分。
■『シンプルな情熱』アニー・エルノー著、堀茂樹訳(角川epi文庫)
10数年前に読んだとき、惹かれた理由をうまく言葉にできなかったが、再読して腑に落ちたことがあった→書評空間

知らない町へ、祖敷大輔さんのイラスト展を見に。

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週末の楽しみは町を歩くこと。それも何かのきっかけで知らない町に行くときはわくわくする。今日は『ソキョートーキョー』の挿画を描いてくださった祖敷大輔さんの展覧会を見に上井草へ。西武線新宿駅から行くのでは当たり前すぎるので、東中野駅から中井駅に歩き、そこから西武線で上井草駅へという複雑なコースを考える。東中野北口を出て神田川を見下ろす台地のへりにそって北進、中井駅に着くころにはかなり旅人気分に浸っていた。車内はがらがらで、シートの向かい側に座っている父と息子の親子づれになぜか小説的想像を刺激される。そういえば、『随時見学可』の表題作の主人公は、西武線の郊外に住んでいるというイメージで書いたのだった。
 上井草駅を出て線路にそって歩き出す。商店街はすぐに途切れ、この道でいいのだろうかと思うころ、目を惹く建物が見えてきた。近寄っていくと予想どおり展覧会がおこなわれているgenro&cafeだった。住宅街のなかの木々に囲まれたカフェ。グラフィックデザイナーの店主がつくられた文具や雑貨が置かれ、真空管のオーディオセットからは厚みのある音が流れている。都心にはぜったいにない鷹揚な雰囲気が、週末のひとときを過ごすのにぴったりだ。ちょど祖敷さんがいらしていて、おいしい紅茶をいただきながら1時間ほどおしゃべりをする。フランシス・ベーコンが好きだと聞いて最初は意外に思ったが、話すうちに彼の言わんとするところがわかってくる。熊谷守一はすごい!で意見一致。日が傾きはじめたので、暗くならないうちにまた歩こうと、夕暮れの光のなかを西荻窪駅にむかった。西東京を四角く回遊した午後だった。(2010.4.25 )

たちまち増刷!

先週から青山ブックセンター本店で配布をはじめた『ポータブル』。管啓次郎さんがブログmon pays natalで熱いメッセージを書いて下さった効果でしょうか、この週末にずいぶんはけたようで、ただいま鼠京新聞社に増刷手配中!

生きていく呪文としてのことば

DSCF2979_convert_20100417224739.jpg昨夜のカタリココ、ゲストは春日武彦さん。精神科医として臨床の現場にたずさわってらっしゃる春日さんの文芸評論には独特の切り口が光りますが、その元が明らかにされるようなひとときでした。「病名」を名付けることでも、ましてや患者にそれを納得させることでもなく、本人が生きやすくなるように導くことが精神科医の仕事である、ということばに深く納得。「作話症」のような症状も、虚構の物語を作らずにいられない切迫感から生み出されるし、同じ話が繰り返されるのも、生きていくための呪文のようなもの。それを「異常」とみなして除去に向かうのではなく、複雑な心をもった人間という生き物が、生命活動をつづけていくための必然としてとらえる視点に、観客がひとつになって大きくうなずきました。人はことばから、物語からのがれられない存在。「生きていくための呪文」は文学の出発点であるんですね!(2010.4.18)

「レンズ通り午前零時」の4回がアップされました。

住んでいた東九丁目はウクライナ人が多く、「リトル・ウクライナ」の様相を呈していた。まだソ連だった時代だから、「ウクライナ」という地名に馴染みは薄く、オデッサなどという地名も、最初はその街にあったカフェの名前として頭に入ってきたのである。書いているうちに街の風景が鮮明になってくるのは、忘れていた過去がよみがえるというより、記憶の破片が膨らんで別のものに転じるフィクショナルな感覚に近い。→http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50032565.html

『ポータブル・大竹昭子』が出来上がりました!

portable03omote.jpgportable02omote_convert_20100415142824.jpg『ソキョートーキョー』の刊行にあわせてABC本店で開催中のフェアで、鼠京新聞社からリーフレットを配布することを前にお知らせしましたが、完成してフェアの棚に並んでいます!
 これまで著作を振り返るのがいやで(怖くて)避けてきたのですが、今回は腹をくくって、書くことのおもしろさに目覚めた80年代ニューヨークから、現在までをたどってみました。著作の内容はあちこちに飛び散っているようですが、どうやら有機的なつながりがあるらしく、自分の魂の遍歴を見る思いがしました。こういう支離滅裂な書き方は決してオススメはできませんが、私としてはこんなふうに書いてくるしかなかったなあと再確認した次第です。

portable02ura_convert_20100415142506.jpgデザインは五十嵐哲夫さん。「ポータブル」のレタリングがとてもキュートです。また表4にはwako さんが、これまた愛らしい漫画を提供してくださいました。アルタイとランの対照的なキャラクターが描かれていて、思わず微笑みがもれます! 
 ミニメディア作りには著作を出すのとはまた別の楽しさがあり、仕事そっちのけで出来上がりを見て悦に入ってます。朱とブルーの2色ありますので、お好きなほうをどうぞ! この画像よりホンモノのほうがはるかに鮮やかでステキです。(2010 .4.15)

『ソキョートーキョー』の反響いろいろ。

書評第1号は東直子さんだったことはすでにご紹介しましたが、その後、雑誌・新聞などにも載りました。
とてもうれしいです。本を書いたときは反響だけが楽しみですから。
■『サンデー毎日(3/14)「サンデーらいぶらりい」には池内紀さんのユーモアあふれる文章。「カリカチュアでも諷刺でもない。ごく平静に、当然至極のこととして語られているのに驚く。よほどネズミを友として暮らした日常があったのあろう。「エート、こちらはー」、ソキョーだったかトーキョーだったかわからなくなってくる。作者の思うツボであって、気がつくと、わが頬にピンとネズミのヒゲがのび、口がすぼまり、お尻には細いしっぽ」→サンデー毎日
■地方紙数紙には、共同通信の配信により川端裕人さんの書評が載りました。「ぼくらはみんな生きている!本作は不安と閉塞感に充ちた現代社会を映す寓話というより、「生きる」という尊い所作の多重奏として、ぼくには力強く響いた」。「生の多重奏」というとらえ方は、生き物が登場する小説をたくさん書かれている川端さんならでのものです。
■女性誌『 Ginger』5月号には、温水ゆかりさんが書いてくださいました。「ネズミ社会に注入した著者の想像力がすごく楽しい」「つまり、これはもう忘れ去られてしまった猥雑な東京の記憶でもあるのだ」「まさかネズミの話を読んでフィツジェラルド風の叙情を感じるとは予想しなかった」。ソキョーの描写は私自身も気持ちを入れ込んで書くことができたので、楽しんでもらえてワーイ!という気分。
■4月11日の毎日新聞書評ページには著者インタビューが載りました。
取材者は『図鑑少年』のときにもインタビューをしてくださった記者の桐山正寿さん。久しぶりにお会いできてうれしかったです。→毎日新聞

青山ブックセンター本店でフェアを開催!

??青山ブックセンター本店で、昨年亡くなられた青土社の津田新吾さんの仕事を見わたすフェア「本の島」がおこなわれており、こういう企画はすばらしいなあと感激していたら、その棚を作ったABCの寺島さやかさんが、私の全著作を展示するフェアをしてくださることに!
『ソキョートーキョー』を読んで、「この作品にはこれまでの仕事がぜんぶ入っている!」と直感されたのがきっかけと伺い、感激しました。
どのようにひとつの仕事がつぎの仕事に発展したのか、逸脱の軌跡をポップ付きで展示してます。「超ジャンル主義」というのは結果にすぎないのですが、どうしてこのようにジャンルに回収できない仕事の仕方をしてきてしまったのかということも、自分なりに考えてみました。また開催記念として、いま鼠京新聞社(!)にて『ソキョートーキョー』までの著作の歩みをたどったリーフレット、『ポータブル・大竹昭子』を制作中。10日の週末には棚のところで無料配布いたします。また期間中にトークショーも開催する予定でいま準備を進めています。青山にいらしたら立ちよってみてください! 津田さんの棚の向かいです。(2010.4.4)

充実度満点の週末。

konishi-san1_convert_20100404022203.jpg目黒川の桜見物の人波にもまれながら、大鳥神社の少し先のギャラリーコスモスで開催中の小西康夫さんの写真展を見に行く。これまで彼はエディトリアルの仕事が中心だったので、案内状が届いたとき、おっ、写真展だ、と思ったのだったが、さらに意外だったのはその内容。心霊写真のエクトプラズムのようなものが写っている。会場でそれら1点1点をじっくりと観察。白いやわらかなものがさまざまなフォルムをなして揺らいでいるが、その正体がわからない。ついに降参して小西さんに教えてもらった。その答えはここには書かないでおくが、話を伺ううちに浮かんできたのは、その「白いもの」にむかって黙々とシャッターを切っている小西さんの背中である。写真になっていま目の前にある白い像と、それを撮影する現場の状況には大きな隔たりがある。さながら顕微鏡をのぞく科学者の背中と、彼がレンズ越しに見ているミクロの世界のギャップのよう。科学者には到達すべき「目的地」があるが、写真家にはそれはない。何のためにその行為がなされるのかつかめないまま、のめり込んでいく。写真家の存在が魅力的なのはそこだ。みんなビョーキ持ちなのよ。そう、森山大道さんが言っていたのを思いだした。
ケンブリッジ
 夜は柴田元幸著『ケンブリッジ・サーカス』を開く。生れ育った場所であり、いまも生活の地である大田区六郷にはじまり、大学時代に訪ねたロンドン、リバプールと、若いころの自分と対話しながら場所の記憶をたどっていくという、週末に読むにはもってこいの作品。小西さんのところで、しばらく会ってない友だちの近況などを聞いたばかりだったので、読むうちに記憶がどんどん喚起され、ニューヨークの章に至ると街に出たくなり、本をつかんで近所のジョナサンへ。夜のダイナーに座っている男を描いたエドワード・ホッパーの絵の気分でカウンターに座り、ビールを飲みながら一気に読了。夜気のたしかなにおいを胸に吸い込みながら帰ってくる。パーフェクトな1日。(2010.4.3)