大竹昭子のカタリココ

朗読イベント〈カタリココ〉&トークイベントのお知らせと「日々雑記」

おしらせ&雑記

2017年<カタリココ>のラインナップ発表です!

katarikoko2017coverW320_convert_20170319124219.png毎年、この季節になると、今年のカタリココは決まりました?と訊いてくださる方がいます。はい、間もなく発表しますので、Webをご覧ください、とお答えします。チラシの文面を書いたり、デザインをお願いするために1月には決まっているのですが、ぐっと堪えるのです。発表は春の到来とともに!ですから。 

10周年の昨年は赤色のチラシでしたが、11年目に入る今年はご覧のとおりクールで爽やかな色調。前回の三つ折りが好評だったので、今年もそういたしました。各回の言葉はそれぞれのお店が担当し、裏面には、どうやってゲストを決めていくかを私が書いた「芋のツルをたどるように」が載せました。デザインは五十嵐哲夫さん。毎回、細部に工夫を凝らした品のあるチラシをつくってくれます。

チラシは、開催会場の森岡書店、ポポタム、古書ほうろう、ボヘミアンズ・ギルドほか、下北沢B&B、渋谷サラヴァ東京などでもピックアップできます。
4月から11月まで、ジャンルのちがう四人四色の面々が登壇する11年目のカタリココを、どうぞよろしく!
*チラシの内容をご覧いただくには上記の「これからのカタリココ」をクリックください(2017.3.19)

3月の迷走写真館はこの写真です!

8ddcd4cd-s.jpg最初にこの写真を見て浮かんできたのは、五体投地のシーンです。
実際に見たことはないですが、チベット仏教の人々が五体を地面に投げ打って神に祈る姿は写真などで目にしており、そのイメージと重なりました。
でも手間側に岩を積んで囲いが出来ているのを見ているうちに、別の想像も浮かんできました。
写真についてなんの情報もなく眺めるとき、知っている事柄を参照して考えたり、記憶にあるほかのイメージとつなぎあわせて想像を馳せたりするものです。
まったく見当ちがいのことを考えていることもありますが、こと、この写真についてはまんざら遠くもなかったようです。文章を読んだあと、別枠の解説をご覧ください。→ときの忘れもの

2月の迷走写真館はこの写真です!

88aa26af-s.jpg一見してわかるのは、現代の写真ではないということ。
ふんどしを付ける子はいないし、ましてや、渓流の中をこんなふうに覗きこむことはしないでしょう。
全身にみなぎる意欲が小気味良く、見ているだけでこちらの体にもエネルギーが注入されてくるようです。→ときの忘れもの(2017.2.16)

今年の「ことばのポトラック」は3月5日に開催です!

チラシ・スクリーンショット
今年のゲストは美術家の鴻池朋子さんです。チラシに書いた通り、昨年彼女の著書『どうぶつのことば 根源的暴力をこえて』に出会い、次回のポトラックは鴻池さんに来ていただきたい!と切望しました。先日打ち合わせをしましたが、さまざまな話題が飛び出し、もうトークがはじまってしまったような勢い。
当日は彼女の現在を軸に、カンザス、フィンランド、タスマニアなど、海外での活動についても話していただきます。美術に関心のある人はもちろんのこと、美術を遠いものと感じていた人にとっても心と体に響く場になるでしょう! 
次回の予告編の映像(わたしが熱く語っています!)をこちらでご覧いただけます。予約方法ものってます。→ことばのポトラック(2017.2.1)

2017年1月の迷走写真館はこの写真です!

70f6ea4f-s.jpg早いもので、この連載も48回になります。つまり4年が経過したというわけですね。
毎回、写真展か近刊写真集からモノクロ写真を一点とりあげていますが、その写真を選ぶのがなかなか大変です。写真としては良くても、書けそうという予感が持てないとだめで、そこの判断がなかなか難しいのです。
原稿にむかうときは頭の中はまっ白状態。書けそうな予感だけが頼りなものですから、もしもこれを選んで何も書けなかったらどうしょうとウジウジするのです。
なのでどうしても要素の多い写真を選びがちなのですが、今回の写真のように要素が過剰なほど多いと少ないものと同様にビビリます。写っているものをただあげつらってもしょうがないし、うまくいくだろうかと悩むわけです。そういう意味で今回の写真は挑戦でした。うまくいっているといいのですが……。ギャラリーときの忘れもの(2017.1.30)

「間取りと妄想」最終回がアップされました!

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最終回は一風かわった集合住宅が舞台です。玄関からベランダ側へと部屋がうなぎの寝床のようにつながってます。が、特異なところほかにもあって、どちらかと言うとそのほうが大きいのですが、それが何かは読んでのお楽しみ!
昨年8月にスタートしたこの連載も今回が最終回です。書下しを加えて来年6月に亜紀書房から出版されます。目下、これまでの回を推敲しているところが、読むたびにいやなところが見つかり書き直すので終わりがありません。飽きっぽい性格なのに、こと文章になるとひどく往生際が悪い。校了までジタバタがつづきそうです。→あき地(2016.12.30)

12月の迷走写真館はこの写真です!

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楽しげな草原のピクニックです。
一頭のひつじが正面を向いているのがミソ。
カレの視野には写真家の存在も入っているかもしれません。
このなかでいちばん冷静な感じもします。

反対に、いちばん冷静でないのは左のハンチングの男。
かなり出来上がっている様子で、しかももう一本開けようとしています!
ときの忘れもの

2016年最後のカタリココは柴田元幸さんと、初心にかえって朗読の話を。

shibata_w6002.jpgカタリココは「トークと朗読の夕べ」と謳っていますが、朗読について語り合った回はあまりなかったような気がします。多和田葉子さんが、「論文でも朗読に耐えるものじゃないとだめだ」とおっしゃっていたのを思いだすくらいでしょうか。

そもそもカタリココを思いついたのは、ドイツで朗読が盛んなことを知り、東京でもやってみようと思ったのがはじまりで、多和田さんにお越しいただいたときもドイツの状況を話していただきましたが、9年間つづけるうちにカタリココが朗読イベントしてはじまったことを忘れかけていました。
10周年のトリを柴田元幸さんに務めていただいたのは、そんなことが頭にあったからです。

柴田さんにはすぐれた翻訳者としての顔がありますが、それだけではなく、CDブック『ナイン・インタビューズ』では欧米の作家にインタビューしてその「声」を集め、トークイベントでは自ら朗読をし、古川日出男さんの朗読劇「銀河鉄道の夜」に出演して活躍するなど、「声」に高い関心を寄せてきました。

欧米の作家はよく、自分の「声」を見つける、という言い方をします。『ナイン・インタビューズ』でも、カズオ・イシグロが、自分の「声」を見つけなければならないと若いころ仲間と言い合ったものだ、でも、「声」が見つかってもそれでずっといけるわけではない、常に新しい「声」を見つけださなければならない、と語ってます。この「声」は日本語だと「文体」に当たるのでしょうが、英語の「文体」には「style」という別の言葉があります。つまり、私たちが「文体」と総称しているもののなかに彼らは「voice」と表現せずにはいられない要素を見いだしているのです。
なぜ「声」なのでしょう。

ひとつは英語の文章が基本的にリーディング・スクリプトだからだ、というお話にうなずきました。欧米の作家は「ちょっと声にだして読んでください」と頼むと、ためらわずにすぐに読むそうですが、たしかに単語をそのまま発音していけば読めます。音読の必然性が高い言語なのです。それに対して日本語の文章は、漢字の読みとか、息継ぎの箇所などの問題があって練習が必要で、声にするのにワンステップあります。

それには、明治以降の文学の「文体」も関係したようです。それらは翻訳文学をお手本にしてつくられてきましたが、「翻訳調」という表現がネガティブな意味で使われてきたように、翻訳文学は言葉遣いが固いというのが相場でした。それが近代の日本文学にも影響し、声にだして読む江戸時代の浄瑠璃のような文学は廃れ、黙読が主流となって言葉の「声」の側面が失われてきたのです。

ここ数年、以前に比べると朗読が盛んになっています。そこには柴田さんの貢献もあるわけですが、「僕も大きな流れのなかのひとりなのです」と彼は述べます。村上春樹さんをはじめとして、音を意識する翻訳者が登場して翻訳文学の文体が変わってきたこと、それに影響されて若い作家の文章が変化したこと、また川上未映子さん、町田康さん、中原昌也さんなど、音楽から小説のほうに入ってきた作家が増えたことなど、言葉の「声」の側面が意識されるようになるつれて、柴田さんの活動も加速されてきたのでした。
「もういまの作家は文体がどうしたとか言わないでしょう?」と柴田さん。
「たしかに。そのうちに日本の小説家も、声が決まらなくて書き出せなかった、なんて言うようになるかもしれないですね」と私。

柴田さんが米文学を選んだのは、米文学を教えている先生がすばらしかったからで、たまたまだそうです。ということは、ここよりよい世界がどこかにあると信じるアメリカ的価値観に惹かれたのではないのですね、と問うと、はっきりと「そうではないです」。日本に生まれて、日本人の親に育てられたことはゆるがないし、自分の場所はここだし、積極的に動きたいとも思わない、「そういう意味ではアメリカ文学はよそ事です」ということばを聞いて、自分が柴田さんを信頼しているわけが腑に落ちました。

つまり、自由と民主主義を信じて理想を求めるアメリカ的価値の啓蒙者ではない、ということです。彼の献身は、作家の「声」を聞き取り日本語にするという翻訳事業に向けられているのであり、その情熱とエネルギーが半端ではないところが、すばらしいのです!10周年の節目に、朗読について、「声」について、翻訳について深く語り合うことができ、初心にもどれたような気がしました。気持ちを新たに、来春から11年目に入ります。(2016.11.24)