大竹昭子のカタリココ

朗読イベント〈カタリココ〉&トークイベントのお知らせと「日々雑記」

〈カタリココ〉はトークと朗読のイベントです。
「語り」と「ここ」を合わせて〈カタリココ〉。
都内の四つの古書店を会場に、ゲストとトークしながらそれぞれの著書を朗読します。

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〈カタリココ〉〈カフェ・カタリココ〉以外の書店のイベント、写真のレクチャー、
シンポジウムなどについてご案内いたします。
写真:「西荻ブックマーク」主催の写真レクチャー&トーク

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大竹昭子(おおたけ・あきこ)
ノンフィクション、エッセイ、小説、写真評論など、ジャンルを横断して執筆。2007年にトークと朗読の会〈カタリココ〉をはじめる。また2011年3月に東日本大震災後、詩人や作家にことばをもちより朗読してもらう「ことばのポトラック」をスタート、現在も渋谷・サラヴァ東京にて継続中。 著作リストtwitter

[web連載]ときの忘れもの「迷走写真館」, 紀伊國屋書店「書評空間」, 月曜社「森山大道のon the road」, 草森紳一記念館「白玉楼中の人」

おしらせ&雑記

2018年9月29日、佐藤貢とのカタリココ

IMG_8728_2_convert_20181009170316.jpg今回の展示は、インドの旅からもどって和歌浦の海辺に暮らしはじめた頃から最近作まで、10年以上の幅をもった作品群でした。むかしの作品を取り出して細部を点検したりするなかで、いろいろと思ったことがあったのではないか、とトークの最初で話を振ったところ、「終わったことには何の感慨もないんです、いや、ちゃんと作業はしましたけど、ただやるべきことを淡々とこなしただけという感じで」と話の接ぎ穂がないような返答。うーむ、そう来たか、と腕組みし、ここでスライド上映に移りました。

片づけたら貸してやると言われて、岩の崖を壁の一部として利用して造った秘密基地みたいな建物に手をつけたのが、創作のきっかけになったそうです。捨てるものが出る。これでなにかできないかと考える。そのころ、流木で額を作るのが流行っていたので、まねして作ってみたところ、四隅がうまく連結しなくて空きができ、苦肉の策として隙間の部分にほかの材料をつぎ足したら、おもしろくなりました。このとき、「商品をつくる」発想が「美術」へとシフトしたのでしょう。
このようにして、「視野が狭くて思い込みが強い自分」が、思いどおりにいかないことに遭遇するたびに、壊され、自由になっていくのを実感します。終わったことには関心がむかないのは、もしかしたらそうした歓びをもっとも優位に置いているためかもしれません。

はじめにイメージがあるのではなく、作品のために材料を探すのでもなく、自分のところに寄ってきたもの、手元にあるものを眺めることからはじめる「受け身」の制作。そう聞くと消極的のようですけど、運命に抗わずに受け止めるというのは彼の信念のようです。自らの意志で物事を操らずに、時空の判断にゆだね、進んでその運命に身を投げ出すのです。そのような考えに至ったいきさつについては、彼の著作『旅行記 前・続編』(iTohen press)お読みください。IMG_8739_convert_20181009161459.jpg
会場には、水平にしたスピーカーの上に木の実がのせられ、それが空気の振動により躍る、という作品も展示されました。これに仕込まれた音源は彼の自作ですが、なかなかすてきでした。あるときふっと音を作りたいなと思って押し入れを開けると、持っているはずのないミキシング装置がそこから現われた! と、なんだかオカルト風ですが、そうではなくて、酔った友人が自宅に持ち帰るのが面倒になり、彼の留守のときにあがりこんでしまい込んでいったのに、気がつかなかったのです。

このように、音を作りたいと思うやいなや、現実がその方向に動きだ、ということが彼の周辺ではよく起きます。自分の気持ちを時空の動きにあわせてつかまえる特異な感覚を持ちあわせているようです。それは創作にも活かされています。メインとなるパーツを手にし、別の廃品を付加して形をつくりあげていきます。ゼロから生み出すのとはちがう出会いの感覚が生きているのであり、微妙で、あやうく、はかないのに作品にどこか生命感が漂うのは、そのためのような気もします。

気がついた方もおられるでしょうが、作品は壁に打った一本の釘にひっかけられています。大きなものでも、たったひとつの支えによって固定されていて、見た目だけでなく、構造的にもバランスが考え抜かれているのです。作品がどこか建築的な印象を漂わせている理由がつかめたように思いました。

このように、佐藤貢の作品について書きだすと止まらなくなりますが、作品の繊細であやうい印象と、ナマの佐藤さんのギャップに触れられたのも、ライブの場ならではの醍醐味だったと思います。彼のユーモラスなストーリーテラーぶりに、会場からは終始笑いが絶えず、繊細さと強靭さの振れ幅の大きさにうならされ、人間の奥深さを想いました。(2018.10.9)









佐藤貢展とカタリココのご報告です!

IMG_8728_2_convert_20181009170316.jpg今回の展示は、インドの旅からもどって和歌浦の海辺に暮らしはじめた頃から最近作まで、10年以上の幅をもった作品群でした。むかしの作品を取り出して細部を点検したりするなかで、いろいろと思ったことがあったのではないか、とトークの最初で話を振ったところ、「終わったことには何の感慨もないんです、いや、ちゃんと作業はしましたけど、ただやるべきことを淡々とこなしただけという感じで」と話の接ぎ穂がないような返答。うーむ、そう来たか、と腕組みし、ここでスライド上映に移りました。

片づけたら貸してやると言われて、岩の崖を壁の一部として利用して造った秘密基地みたいな建物に手をつけたのが、創作のきっかけになったそうです。捨てるものが出る。これでなにかできないかと考える。そのころ、流木で額を作るのが流行っていたので、まねして作ってみたところ、四隅がうまく連結しなくて空きができ、苦肉の策として隙間の部分にほかの材料をつぎ足したら、おもしろくなりました。このとき、「商品をつくる」発想が「美術」へとシフトしたのでしょう。
このようにして、「視野が狭くて思い込みが強い自分」が、思いどおりにいかないことに遭遇するたびに、壊され、自由になっていくのを実感します。終わったことには関心がむかないのは、もしかしたらそうした歓びをもっとも優位に置いているためかもしれません。

はじめにイメージがあるのではなく、作品のために材料を探すのでもなく、自分のところに寄ってきたもの、手元にあるものを眺めることからはじめる「受け身」の制作。そう聞くと消極的のようですけど、運命に抗わずに受け止めるというのは彼の信念のようです。自らの意志で物事を操らずに、時空の判断にゆだね、進んでその運命に身を投げ出すのです。そのような考えに至ったいきさつについては、彼の著作『旅行記 前・続編』(iTohen press)お読みください。IMG_8739_convert_20181009161459.jpg
会場には、水平にしたスピーカーの上に木の実がのせられ、それが空気の振動により躍る、という作品も展示されました。これに仕込まれた音源は彼の自作ですが、なかなかすてきでした。あるときふっと音を作りたいなと思って押し入れを開けると、持っているはずのないミキシング装置がそこから現われた! と、なんだかオカルト風ですが、そうではなくて、酔った友人が自宅に持ち帰るのが面倒になり、彼の留守のときにあがりこんでしまい込んでいったのに、気がつかなかったのです。

このように、音を作りたいと思うやいなや、現実がその方向に動きだ、ということが彼の周辺ではよく起きます。自分の気持ちを時空の動きにあわせてつかまえる特異な感覚を持ちあわせているようです。それは創作にも活かされています。メインとなるパーツを手にし、別の廃品を付加して形をつくりあげていきます。ゼロから生み出すのとはちがう出会いの感覚が生きているのであり、微妙で、あやうく、はかないのに作品にどこか生命感が漂うのは、そのためのような気もします。

気がついた方もおられるでしょうが、作品は壁に打った一本の釘にひっかけられています。大きなものでも、たったひとつの支えによって固定されていて、見た目だけでなく、構造的にもバランスが考え抜かれているのです。作品がどこか建築的な印象を漂わせている理由がつかめたように思いました。

このように、佐藤貢の作品について書きだすと止まらなくなりますが、作品の繊細であやうい印象と、ナマの佐藤さんのギャップに触れられたのも、ライブの場ならではの醍醐味だったと思います。彼のユーモラスなストーリーテラーぶりに、会場からは終始笑いが絶えず、繊細さと強靭さの振れ幅の大きさにうならされ、人間の奥深さを想いました。(2018.10.9)

*『旅行記 前・続編』はボヘミアンズ・ギルド(スズラン通りの書店)で入手できます。










10月の迷走写真館はこの写真です!

89dd4c1f-s.jpg櫛で梳かれているときと、四方八方に乱れ飛んでいるときと、頭皮を離れて抜け落ちたとき。
状態によってさまざまに表情が変化し、見る側の情緒にも影響を与える髪の毛。
長い髪が潮風に乱れて飛ぶにまかせながら、海原を見つめている女生徒の心は、いま空白状態にある。
来るべきものを予感し、空っぽの心地よさに浸っているかのようだ。
ギャラリーときの忘れもの(2018.10.5)

9月のカタリココは美術家の佐藤貢さんをお迎えします!

DM 佐藤貢 完成アウトラインカタリココでは本当におもしろいと思うものを、おもしろいですよ!とみなさんにお伝えすることをなによりの喜びとしてつづけてきました。そこでいよいよ、佐藤貢さんの登場です。
佐藤さんと知りあったのはカタリココをはじめるより前、森岡書店の森岡さんのご紹介でした。前の茅場町の店舗で、作品本人ともに初めてお会いしたその日に彼とトークをしたのです。
以来、佐藤さんの作品を見続けてきましたが、会うたびに人間と作品が不可分に絡まりあった彼の魅力に引き込まれてきました。このたび、カタリココの場に彼をお迎えして展覧会を同時開催できるのがうれしくてなりません。名古屋方面にはファンの多い方ですが、東京で作品を見られることはめったになくとても貴重な機会です。人が表現にむかうことの切実さにぜひ触れてください!(2018.9.5)

トークショー<カタリココ> 佐藤貢×大竹昭子
日時 9月29日(土)14時30分開場、15時開演 1500円
会場 千代田区神田神保町1-25 神保町会館3F ボヘミアンズギャラリー
予約受付中 ボヘミアンズギャラリー

佐藤貢展 2018年9月26日(水)~10月7日(日)
ボヘミアンズ・ギャラリー 入場無料 会期中無休 12:00-18:00








9月の迷走写真館はこの写真です。

bcc858b2-s.jpg乾いた土地に井戸があり、そこで人が水を汲んでいる、もうそれだけで物語ができてしまいます。でも、よく見ると汲んではいないみたいですけど、遠くからやってきたような感じがするのはなぜでしょうね。それとこの井戸のかたちがおもしろい!自然ばかりのなかに直線だけで出来ているものがあると目立つなあ、などと、見つめるほどにいろいろなことが浮かびます。→ギャラリーときの忘れもの

8月の迷走写真館はこの写真です。

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もたもたしているうちに、アップからだいぶたってしまいましたけど、8月の迷走写真館はこちらの写真です!
カメラを正面から凝視している彼らの顔と姿を眺めるうちに浮かんできた妄想の数々。
似ている、と思うと、みんなが似て見えてきて、なにがなにやらわからなくなります。
ところで、ここ、どこでしょうね。
ちょっと気になります。→ギャラリーときの忘れもの(2018.8.13)

滝口悠生さんのカタリココ、ご報告です!

       IMG_7197_web2.jpg
















ゲストとは初対面のことが多いのですが、滝口悠生さんとはそれだけなく打ち合わせもまったくなしでした。参加者にお配りした冊子(下の写真)にサインを入れる作業を、滝口悠生さんが開演ぎりぎりまでしてくださったからです。時計が30分を指したと同時にトークに入りましたが、もっと後で触れようと思っていた事柄が、どうしたわけか始めてすぐに口をついて出てしまいました。それは「時間」のことです。滝口さんの小説には時間への関心が通奏低音のように流れていますが、今回再読してとりわけそのことが印象に残り、こんなにふうに時間にあれこれ考えを巡らすのは、彼が無為な時間をたくさん過ごしてきたからだろう、と思ったのです。

いきなり本題に突入しすぎな感もありましたが、滝口さんは少しもたじろぐことなく、「うん、20代のころはひまでよく歩いてましたねえ」と答えました。大学に通うのに、埼玉の自宅から電車で池袋にでると早稲田まであの道、この道と平気で3時間くらい歩いてしまう。関西にいくにも新幹線がいやで鈍行を使う。そうやって身体感覚に見合う移動を重ねたことは、創作のベースになっていると思われます。人はなにの為でも無い時間を過ごしているとき、世間的な時空間からちょっとズレたところから物事を見たり感じたりします。それはその人の核を形づくるし文体にも出るのです。IMG_0331_convert_20180726140630.jpg 
小説のなかにはときおり驚くような文章が登場します。たとえば『茄子の輝き』のなかの「文化」は、主人公の「私」が神保町の食堂で文化の日にギョーザを食べる話なのですが、そこで以下の文章を遭遇したときはびっくりしました。
「私は肩掛けカバンとは別に、本が入っているらしい深緑のビニール袋を持っていた」。
「本が入っている」ではなくて「入っているらしい」。たしかに、祝日の昼間にビールとギョーザを頼めば、「入っているらしい」と言いたくなる気分になりますが、それにしてもはじまって早々にこう書くのはかなり勇気がいるし、校閲からも指摘されます。でも滝口さん曰く、「オレのせいじゃない、この人がそう言ったんだから(笑)」。

小説を書き始めたころは、書き手と物語の語り手(主人公)との関係の取り方がよくわからなかったと言います。語り手を自分から切り離して他者にするのがむずかしいということです。『高架線』では登場人物が名乗りをあげて話を切りだしますが、そう思えばあのスタイルは完璧です。名乗らせることで彼らが自立した存在になり、書き手はその人の言い分を聞けばいいという立場になる。両者の距離が一定するのです。
滝口さんの小説は、自己の内的世界を示すのではなく、外部にある物語に耳をすませるのが特徴ですが、その語りが時間軸にそって淡々と進むのではなく、途中に線路の切り替えポイントのような箇所があって巧みに視点や時間が切り替ります。そのために論理よりも流れで意味が決まっていく日本語の特性が最大限に引き出されており、「日本文学」というより「日本語文学」という呼び名がふさわしいような言葉の跳躍力を感じます。

滝口さんは秋からはじまるアイオワ大学のレジデンスプログラムに参加するために、まもなくアメリカに発つそうです。彼の「日本語文学」が英語圏でどのように受け取られるのか、世界各地から集まったさまざまな言語の作家たちからどんな刺激を受けるのか、とても楽しみです。(2018.7.28)

2018年7月20日、滝口悠生さんとのカタリココ

       IMG_7197_web2.jpg
















ゲストとは初対面のことが多いのですが、滝口悠生さんとはそれだけなく打ち合わせもまったくなしでした。参加者にお配りした冊子(下の写真)にサインを入れる作業を、滝口悠生さんが開演ぎりぎりまでしてくださったからです。時計が30分を指したと同時にトークに入りましたが、もっと後で触れようと思っていた事柄が、どうしたわけか始めてすぐに口をついて出てしまいました。それは「時間」のことです。滝口さんの小説には時間への関心が通奏低音のように流れていますが、今回再読してとりわけそのことが印象に残り、こんなにふうに時間にあれこれ考えを巡らすのは、彼が無為な時間をたくさん過ごしてきたからだろう、と思ったのです。

いきなり本題に突入しすぎな感もありましたが、滝口さんは少しもたじろぐことなく、「うん、20代のころはひまでよく歩いてましたねえ」と答えました。大学に通うのに、埼玉の自宅から電車で池袋にでると早稲田まであの道、この道と平気で3時間くらい歩いてしまう。関西にいくにも新幹線がいやで鈍行を使う。そうやって身体感覚に見合う移動を重ねたことは、創作のベースになっていると思われます。人はなにの為でも無い時間を過ごしているとき、世間的な時空間からちょっとズレたところから物事を見たり感じたりします。それはその人の核を形づくるし文体にも出るのです。IMG_0331_convert_20180726140630.jpg 
小説のなかにはときおり驚くような文章が登場します。たとえば『茄子の輝き』のなかの「文化」は、主人公の「私」が神保町の食堂で文化の日にギョーザを食べる話なのですが、そこで以下の文章を遭遇したときはびっくりしました。
「私は肩掛けカバンとは別に、本が入っているらしい深緑のビニール袋を持っていた」。
「本が入っている」ではなくて「入っているらしい」。たしかに、祝日の昼間にビールとギョーザを頼めば、「入っているらしい」と言いたくなる気分になりますが、それにしてもはじまって早々にこう書くのはかなり勇気がいるし、校閲からも指摘されます。でも滝口さん曰く、「オレのせいじゃない、この人がそう言ったんだから(笑)」。

小説を書き始めたころは、書き手と物語の語り手(主人公)との関係の取り方がよくわからなかったと言います。語り手を自分から切り離して他者にするのがむずかしいということです。『高架線』では登場人物が名乗りをあげて話を切りだしますが、そう思えばあのスタイルは完璧です。名乗らせることで彼らが自立した存在になり、書き手はその人の言い分を聞けばいいという立場になる。両者の距離が一定するのです。
滝口さんの小説は、自己の内的世界を示すのではなく、外部にある物語に耳をすませるのが特徴ですが、その語りが時間軸にそって淡々と進むのではなく、途中に線路の切り替えポイントのような箇所があって巧みに視点や時間が切り替ります。そのために論理よりも流れで意味が決まっていく日本語の特性が最大限に引き出されており、「日本文学」というより「日本語文学」という呼び名がふさわしいような言葉の跳躍力を感じます。

滝口さんは秋からはじまるアイオワ大学のレジデンスプログラムに参加するために、まもなくアメリカに発つそうです。彼の「日本語文学」が英語圏でどのように受け取られるのか、世界各地から集まったさまざまな言語の作家たちからどんな刺激を受けるのか、とても楽しみです。(2018.7.28)

次回のカタリココは小説家の滝口悠生さんをお迎えします!

IMG_0255_convert_20180627123204.jpg最近の滝口悠生さんの小説には
町、建物、間取りなどがよく登場します。『茄子の輝き』には高田馬場にある会社が、『高架線』には江古田のアパートが、『本』で連載中の「長い一日」には大家の上階にある日当たりのいい部屋(世田谷)が出てきます。町を徘徊して、建物を眺め、間取りを想像するのが好きな私にとって、まさにドンピシャな内容。しかもそこに記憶と、意識と、認識というテーマがからんでくるので、たまりません。
滝口さんのファンはもちろんのこと、町、建物、間取りがお好きならば、ぜひ。必ずや読者になることでしょう!予約、はじまってます。

日時:2018年7月20日 19時半開演
会場:千駄木・古書ほうろう
参加費:1500円
予約:古書ほうろう
    tel.03-3824-3388